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アムラート城砦跡 |
シーア派のサッバーフが、スンニー派のセルジューク朝と対立するのは、当然ではありますが、実は、個人的な経緯もあったようです。ペルシャ人であるサッバーフは、かつてセルジューク朝の高官でもありました。テュルク系のセルジューク朝は、文官をペルシャ人で構成したようです。ある日、君主が国土の総支出の報告を求めます。宰相ニザーム・アル=ムルクは、報告をまとめるのに1年はかかると言います。対して、サッバーフは、40日で完成させると明言し、実際に成し遂げます。嫉妬した宰相は、君主への報告直前、サッバーフの資料の順番をグジャグジャにします。プレゼンに失敗したサッバーフは宮廷を去ります。後にニザール派が暗殺を開始した際、最初に殺されたのが宰相ニザーム・アル=ムルクだったとされます。
ハサン・サッバーフは、あらゆる学問に精通し、城砦では、個室に閉じこもり、教義の研究に没頭していたようです。カイロへの留学経験もあるサッバーフは、学者としての一面も持つ暗殺者だったようです。面白い逸話があります。イラン東部ホラーサーンでもっとも偉大とされた指導者のもとに三人の優秀な弟子がいました。三人は、一番偉くなった者が、他の二人と幸運を分かち合う、という約束をします。後に、そのうちの一人ニザーム・アル=ムルクはセルジューク朝の宰相になりました。他の二人は、ニザーム・アル=ムルクに、幸運の分け前を求めます。一人は、名著「ルバイヤート」を著すことになるウマル・ハイヤームですが、研究に勤しむための年金を求めます。今一人がサッバーフであり、宮廷高官の地位を求めます。ニザーム・アル=ムルクは、二人に望み通りのものを与えました。皮肉なことに、ニザーム・アル=ムルクは、引き立てたサッバーフに暗殺されることになるわけです。
面白い話ですが、ニザーム・アル=ムルクと他の二人の年齢が離れすぎており、眉唾ものの話です。ウマル・ハイヤームのルバイヤート(四行詩)は、高校時代のお気に入りの一冊でした。無神論者のペシミスティックな詩です。ハイヤームは、イスラム教など、アラブ人の宗教に過ぎない、とうそぶいていたようです。アーリア系の本家ペルシャ人にとって、セム族のアラブ人は、歴史的にも格下にしか見えなかったのかも知れません。テュルク系のセルジューク朝も同様なのでしょう。サッバーフとセルジューク朝の対立にも、そういった要素があるのかもしれません。もっと言えば、1980年のイラン・イラク戦争も、経済的問題がトリガーとは言え、明らかにシーア対スンニーの戦いであり、アーリア人とアラブ同盟を叫ぶフセインとの戦いでもあったと言えるかも知れません。
実際に、十字軍を襲った暗殺教団は、ラシード・ウッディーン・スィナーンが率いたシリアのニザール派です。ハサン・サッバーフが没して数十年後のことです。事実と共に様々な伝説が欧州にもたらされ、暗殺教団の伝説が生まれたのでしょう。暗殺を実行する者たちは、フェダイーンと呼ばれていました。アラブ語で、自己犠牲をいとわない者、という意味です。その後、この言葉は、イスラム世界で、ほぼ戦士という意味で使われていたようです。現代では、自爆テロを実行する者をフェダイーンと呼んでいます。ハサン・サッバーフは、イスラム世界や欧州に対して、ニザール派の教義以上に大きな影響を残したとも言えます。(写真出典:sophia-net.com)