2021年5月15日土曜日

圓山ホテル

昔から、台北に行くなら、宿泊は圓山大飯店と決めていました。1952年、国民党政府が、海外からの使節団用に建てたホテルです。日本統治時代には台湾神社があった圓山中腹に建てられ、台北市内を一望できます。市内各所へのアクセスは、あまり良くはありません。かつて、宿泊する要人たちは、黒塗りの車で送迎されていたので、これで良かったのでしょう。圓山大飯店の中国建築様式を強調した外観は、今も、その威容を誇ります。台北きっての名所でもあり、歴史を見てきたホテルには、今でも十分な魅力があります。

圓山大飯店は、蒋介石夫人にして、国民党政府の外交を担った宋美齢の指示で建てられました。宋美齢は、大富豪宗家の三姉妹の三女です。父親は、メソジスト派の牧師でしたが、ボストンの中国人実業家の養子となり、実業界に転じます。印刷業で財を成し、浙江財閥の中心的人物となりました。また、早くから孫文の支援者でもありました。次女の宋慶齢は、孫文と結婚し、孫文没後も国民党の幹部として活躍します。ソ連と協力し、中国共産党を容認するという孫文の「聯俄容共」方針に忠実だった宋慶齢は、反共に転じた蒋介石と離れていきます。蒋介石と妹の宋美齢が台湾に逃れた後も、宋慶齢は大陸に残りました。中国共産党は、孫文夫人としての宋慶齢を厚遇します。実権はないものの、全人代常務委員長代行にまでなっています。

宋美齢は、蒋介石と結婚した直後から、国民党幹部として行動します。蒋介石が、張学良によって捕らわれた西安事件の際には、自ら西安に赴き、奪還交渉を行っています。また、日中戦争が始まると、世界中、特にアメリカから支持と支援を引き出すべく、大活躍します。宗家の姉妹は、幼少期から大学卒業まで、アメリカで教育を受けています。英語に堪能で、かつ上流階級に学友が多かったことも幸いでした。マスコミも、美しく、豪華な衣装をまとった宋美齢を追いかけます。第二次大戦が終わると、中国では国共内戦が激化します。アメリカ大統領は、蒋介石夫妻と親しかったルーズヴェルトから、むしろ距離を置くトルーマンに変わり、国民党への援助は削減されます。一方、ソヴィエトからの支援が増えた共産党が優位となり、国民党は、台湾へと逃れました。

その後も、宋美齢は、本土奪還を目指す国民党のスポークスマンとして、外交の場で活躍しました。しかし、蔣介石が亡くなり、前妻との長男蔣経国が後継者になると、公職を退き、アメリカに住居を移します。その後、再び台湾には戻りましたが、既に影響力はなく、再びアメリカへ戻ります。豪華な住居で余生を送った宋美齢は、2003年、105歳で亡くなりました。外交の場で華やかな姿を見せていた宋美齢ですが、実は冷淡で怖い人だったと言われます。あるいは姉宋慶齢の誠実な人柄とは対照的に大富豪ゆえの傲慢さにあふれていたとも言われます。その通りなのでしょうが、美貌と笑顔だけで激動の時代を戦い抜くことはできません。相当の強さが求められたはずです。宋美齢は、時代が作った列女だったと思います。

圓山大飯店は、実に見栄えの良いホテルであり、かつて世界十大ホテルに選出されたこともあります。ただ、ホテル内部に関しては、当時、突貫工事で建築されたためか、外見に比して、やや見劣りします。ハリボテとまでは言いませんが、いささか残念に思います。何やら国民党政権、あるいは宋美齢その人を象徴しているような気もしてきます。(写真出典:crea.bunshun.jp)

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