2021年5月22日土曜日

バグダッド・カフェ

例えば100年後、映画の歴史を編纂するとしたら、パーシー・アドロン監督の「バグダッド・カフェ」は、必ず取り上げるべき作品の一つで、かつ最も扱い方が難しい作品の一つになると思います。1987年に制作されたこの西ドイツ映画のストーリーや各種データを記載することは簡単です。しかし、映画史の中で、どう位置付けるかについては、とても悩ましい問題です。突然、現れた大人のためのおとぎ話、とでも言うしかありません。ただ、突然変異種だからと言って、無視することはできません。なぜなら、最も長く、最も多くの人に愛された映画の一つだからです。

南ドイツのバイエルン州ローゼンハイムからアメリカ旅行に来たヤスミンは、モハーヴェ砂漠の旧66号線で、夫と喧嘩し、車を降ります。何もない灼熱の砂漠で見つけたのは、寂れ切ったガソリン・スタンド兼モーテル兼ダイナーのバグダッド・カフェでした。夫を追い出した黒人女性ブレンダが経営し、彼女の家族、英語が書けないヒスパニック系の従業員、永く居着く女刺青師、世捨人のような常連が集うカフェでした。暇を持て余すヤスミンは、掃除をしたり、赤ん坊をあやしたりしますが、ブレンダに嫌われます。間違えて夫の荷物を車から持ち出したヤスミンは、そのなかにマジック・セットを見つけ、手品の稽古を始めます。手品が皆とヤスミンを打ち解けさせ、カフェには、手品目当ての客が押し寄せてきます。

映画の舞台となるのは、砂漠のなかにポツンと残るオンボロ・カフェ、登場人物は、黒人、ヒスパニック、刺青師、世捨人、トラック運転手、そして外国人だけです。いわば、忘れられた道路沿いの忘れられた人ばかりです。アメリカの田舎が舞台にも関わらず、ドキュメンタリー作家だった監督の淡々とした描写、ハリウッドではあり得ない欧州的タッチが、実に不思議な世界を作ります。うがった見方をする人たちは、欧州の目線でアメリカ社会の矛盾を描いているとか、ヤスミンとブレンダの関係から脱家父長制を象徴しているとも言います。ただ、ヤスミンは求婚され、ブレンダの夫は戻ってきます。政治性を全面的に否定するわけではありませんが、そこまで政治的な映画ではなく、やはり大人のおとぎ話なのだと思います。だからこそ、世界中で永く愛されてきた映画なのだと思います。

日本での公開は、1989年。渋谷にあったシネマライズというミニ・シアターで、4か月間という異例のロングランになりました。これが、日本のミニ・シアター・ブームの先駆けとなったと言われます。実は、この異例のロングランは、日本に限った話ではなく、世界中で、限られた映画館で上映され、ロングランを記録したといいます。スペインでは、この映画だけを上映する、その名も「バグダッド・カフェ」という映画館が、長く存在したそうです。30年の間に、何度もリバイバル上映され、再編集版やデジタル・リマスター版も出そろっています。ロケは、カリフォルニア州にかつて存在したバグダッドの町の郊外にあるカフェで行われました。その後、カフェは、名前をバグダッド・カフェに変え、いまも世界中から訪問客が絶えないと言います。

一言で言えば、押しつけがましくなく、人のぬくもりを思い出せてくれる、心安らぐ奇跡の映画だと思います。この映画のテーマやムードを象徴しているのは、オリジナル主題歌の「Calling You」です。アカデミー賞歌曲賞にノミネートもされ、実に多くの歌手がカバーしています。砂漠の午後のけだるさを思わせるアンニュイな曲調に、人のつながりを静かに示唆する歌詞は、映像とともに心に残る名曲です。(写真出典:amazon.co.jp)

マクア渓谷