2021年5月28日金曜日

百花運動

中国のドキュメンタリー作家ワン・ビン( 王兵)の唯一の劇映画「無言歌」(2010) を観ました。1957年に、毛沢東が発動した反右派闘争で犠牲となった人々を描いています。ワン・ビンは、2018年、8時間を超える大作ドキュメンタリー「死霊魂」をリリースしていますが、これは反右派闘争を生きのびた犠牲者へのインタビューで構成されます。また、2007年の「鳳鳴 中国の記憶」も同様のテーマでした。残された記録映像も無く、生存者のインタビューだけでは十分に伝えきれない面もあり、反右派闘争の実態をより明らかにするためには、ドラマ化せざるを得なかったのでしょう。舞台は、ゴビ砂漠に存在した夾辺溝再教育収容所であり、撮影も同地で行われました。ドラマではありますが、セミ・ドキュメンタリーと言っていいのだと思います。人権を否定され、不毛の地で”再教育”される収容者の姿から、全体主義の恐怖が浮かび上がります。

1956年、毛沢東は、「百花斉放・百家争鳴」を打ち出します。多彩な文化を開花させ、多様な意見を論争する、という意味ですが、共産党批判も含め、多くの大衆の意見を集めるという運動でした。ソヴィエトでは、53年にスターリンが死に、56年にはフルシチョフによるスターリン批判が行われました。スターリンによって支持された毛沢東独裁体制にも影響が及び、微妙な陰りが生じます。毛沢東は、スターリン批判を行ったフルシチョフを修正主義と呼び、中ソの関係は悪化していきます。百花運動のねらいは右派のあぶり出しだったとも言われますが、大衆を動員して自らに批判的な官僚体制に攻撃を加え、再度、権力を固めることが真のねらいだったと思われます。後の文化大革命と同じ手法です。毛沢東は、大衆を動員することで体制を覆す、という革命的手法に、絶対の自信を持っていたのでしょう。

ただ、百花運動は、毛沢東の意図どおりには進みませんでした。主に知識階層から、官僚体制ではなく、共産党そのものに対する批判が続出します。57年、焦った毛沢東は、右派が革命を攻撃している、として反右派闘争を発動します。少なくとも55万人が、処刑、あるいは僻地の再教育収容所送りとなり、多くの人が収容所で命を落としました。批判しろと言われ、批判すると収容所送りになったわけです。さらに言えば、反右派闘争は、官僚体制内での派閥争い、出世競争に利用され、右派とは言えない多くの人々が失脚させられました。毛沢東の死後、77年には、胡耀邦が、反右派闘争の犠牲者の復権を行いました。ほぼ全員が名誉を回復し、結果、100人弱だけが、正真正銘の右派と再認定されたようです。100人のために、55万人が巻き添えになったわけです。

その後、毛沢東は、58年、フルシチョフのソヴィエトに対抗するために、工業生産、農業生産の飛躍的拡大をねらう大躍進政策を打ち出します。大躍進政策で設定された無理なノルマに自然災害も加わり、空前の大飢餓が発生し、3~4千万人が犠牲者になったとされます。批判された毛沢東は、権力の座から退きますが、巻き返しをねらって起こしたのが文化大革命でした。毛沢東は、単なる権力亡者だったとは思いません。革命は、官僚によって劣化、堕落させられるものであり、革命そのものである自分が、プロレタリアを先導して戦い続けなければ、革命を成就することはできないと信じきっていたのでしょう。しかし、それは、プロレタリア独裁を目指して戦う純正独裁者という矛盾でもあります。あるいは、神になった男の大いなる勘違いかも知れません。

毛沢東が発動した政治運動は、常に多大な犠牲者を生みました。毛沢東の意図をも超えた極端な行動に走るは、下級官吏や学生といった末端の人たちです。「革命無罪」という毛沢東の言葉のとおり、大儀実現のための犠牲は止む無しとする共産主義の特徴でもあります。ただ、それ以上に、やらなければやられる、極端に振れておかなければやられる、といった恐怖の蔓延が背景にあるように思われます。一神教による苛烈極まりない宗教戦争とも似ています。それは、教義上のユートピアを共有しない不完全な宗教としての共産主義の特徴でもあります。(写真出典:amazon.co.jp)

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