2021年5月3日月曜日

初心忘るべからず

世阿弥「花鏡」
「他山の石」は、誤用が多い言葉として有名です。もともとは詩経の「他山の石 以て玉を攻むべし」から一般化した言葉です。玉にもならない他山の石は、当山の玉を研磨するために使え、という意味ですが、転じて、他人の誤りや失敗なども、自分を磨く助けにする、という訓えになります。誤用の多くは「他人の良い言行を自分の行いの手本にする」という意味で捉えていることです。また、この言葉は目上の人の言動には使いませんが、結構、誤って使う人もいるようです。政治家等が「他山の石とせず」と使う例も散見されますが、「他山の石として」が正しい用法です。よって、最大級の誤用例は「先輩のお言葉を他山の石とせず、がんばっていきます」ということになります。

文化庁が、毎年実施している「国語に関する世論調査」によれば、日本語が乱れていると思う人は、年々減ってきています。言葉は、時代とともに変化して当然、と考える人が増えているようです。どういうところが乱れているか、という質問に対しては、「敬語の使い方」と「若者言葉」という答えが多くなっています。若者言葉は、時代と共に生まれるものなので、乱れているという言い方は当たらないと思います。一方、敬語の乱れは微妙な問題です。尊敬語や謙譲語は、日本語が持つ美しい文化の一つだと思います。尊敬語や謙譲語の新しい形が一般化しつつあるのであれば、時代の変化と言えますが、単なる誤用であれば、正すべきだと思います。そして、正しい意味や使い方に最も忠実であるべきは、格言、箴言、アフォリズムだと思います。

「他山の石」と同様に誤用が多いとされるのが「情けは人のためならず」です。情けをかけるとその人のためにならない、と理解している人が多いようです。正しくは、人にかけた情けは、いつか自分に戻ってくる、という意味です。他にも、似たような誤用は数多くあるのでしょうが、私が気になるものの一つが「初心忘るべからず」です。世阿弥の「花鏡」の奥段に書かれた芸能の真髄とも言われる言葉です。よくある間違いは、何事かを初めて行った頃の初々しい真摯さを忘れずに励みなさい、という理解です。それはそれでいい言葉だと思いますが、世阿弥が言っている初心とは、能を習い始めた頃の未熟さを忘れるな、ということです。その未熟さを基準とし、それを乗り越えるべく修練を重ね、熟達していくのが芸道だということです。初心なくして後心なし、つまり未熟さを忘れずに努力するから熟達するというわけです。

世阿弥は、続けて「時々の初心」、「老後の初心」とも言っています。芸事に終わり無し、とも言われます。芸事には、これでいい、これで完璧、ということがありません。以前にも書きましたが、義太夫語りの人間国宝だった八代目豊竹嶋太夫は、70余年の芸歴を振り返り、「下手だから続きました」と語っています。年齢を重ね、熟達すれば、そこにはそこで新たな世界が広がり、そのレベルでの未熟さ、時々の初心が生まれます。老境に至れば至ったで、そこにも新たな挑戦と未熟さ、つまり老後の初心があります。初心、つまり未熟さを基準点として、常に、謙虚な気持ちで、真摯に芸に向き合い続けなさい、ということです。これが能楽に限った話であれば、ここまで広く知られることはありません。諸芸どころか、人生そのものに通じる深い言葉です。

日本を代表する天才としては、まずは弘法大師空海を挙げるべきだと思います。世阿弥は、その次のクラスに位置するほどの天才だと考えます。滑稽な物まねに始まる猿楽を一気に幽玄能の高見へと昇華させ、それが400年このかた、変わることなく演じられているわけですから、天才としか言いようがありません。また、それは芸をアートの域にまで高めた改革でもありました。世阿弥は、あらゆる芸道に影響を与えた大改革者だったと言えます。芸を極めた世阿弥は、仏教でいえば、如来に限りなく近い菩薩クラスだとも思えます。菩薩のような世阿弥の言葉は、正しく理解し、使われるべきだと思います。(写真出典:www2.ntj.jac.go.jp)

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