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石丸進一投手 |
日本初のプロ野球チームは、1920年、早稲田大学OBが設立した日本運動協会だとされます。そして、日本のプロ野球リーグは、1936年(昭和11年)に、東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7チームでスタートしています。拠点とした球場は、かつて東陽町にあった洲崎球場でした。海岸近くの低地にあったため、満潮になると水が出て、潮が引くとカニが歩くという劣悪な球場だったそうです。翌年には、建設中だった後楽園スタヂアムが完成し、本拠地も移転しています。リーグ初年度の優勝決定戦は、東京巨人軍と大阪タイガースで戦われ、巨人軍が勝利しています。巨人軍の沢村栄治投手が投げ、タイガーズの景浦將選手が打つという、いまや伝説となった試合でした。
沢村栄治は、足を高く上げるフォームから剛速球を繰り出す球界屈指の大投手です。当時の映像を分析した結果、球速は160kmとされています。三重県出身、京都商業中退後、巨人軍入りしています。その名は、最も活躍した完投型先発投手に与えられる「沢村栄治賞」として、今に残ります。一方、大阪タイガースの4番バッター景浦將は、松山商業、立教大でエースとして活躍し、優勝も経験しています。プロ入団後は、腰をねじ切るほどのフルスイングで鳴らし、史上最強打者とまで言われます。水島新司の人気漫画「あぶさん」の主人公・景浦安武の名字にも使われています。黎明期のプロ野球を大いに盛り上げた二人ですが、太平洋戦争が始まると、幾たびか召集され、残念ながら戦死しています。沢村栄治、享年27歳。2歳上だった景浦將は、享年29歳でした。
実は、東京ドームの鎮魂の碑には、石碑が2枚あります。1枚には戦没者名が記され、もう1枚には、遺族を代表して、石丸進一選手の兄でプロ野球選手だった石丸藤吉による追悼文が彫られています。石丸進一投手は、佐賀商業卒業後、名古屋軍に入団します。42年には17勝、43年には20勝をあげ、かつノーヒット・ノーランも達成しています。しかし、石丸投手の活躍もここまででした。44年春には召集され、筑波海軍航空隊に配属されます。翌45年、敗戦の年に、石丸進一は、神風特別攻撃隊に志願、帰らぬ人となりました。石丸投手は、プロ野球界でただ一人の特攻隊でした。10球ばかりキャッチボールを行い、「これで思い残すことはない」と言って、出撃したと言います。享年22歳。その最後のキャッチボールを目撃していた従軍作家がいました。戦後、ロングセラー「徳川家康」を執筆することになる山岡荘八です。
後に、山岡荘八は、目撃した情景を「あらゆる欲望や執着から解放された人々が、いちばん美しい心を抱いて集っていた」と書いています。特攻は、人権に対する許しがたい大罪です。ただ、「いちばん美しい心」という言葉は、特攻を巡る様々な思いや議論を、遥かに、遥かに超えたところに浮かんでいる真実のように思います。若者たちの純粋さに涙を禁じ得ません。(写真出典:dragons.jp)