2023年5月8日月曜日

際の島

アゼルスタン王
2世紀末から、ほぼ単一民族が、天皇家をトップとする国の形を継続してきた日本は、かなり特殊な国なのだろうと思います。当然ながら、日本人は自らの歴史を基準に他国を捉える傾向があります。英国に対しても同様です。英国の正式名称は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland (グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)。君主を同じくするイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという4つの国が、複雑な歴史をそのまま背負った形で連合を組んでいます。日本人には分かりにくい面があり、UKではなく、イギリスや英国といった連合形態を無視した呼び方を好みます。結果、イングランド王国、特にステュワート朝以降を英国のすべてと誤解する傾向もあります。

4~5千年前のブリテン島には、ストーンヘンジ等の巨石文化で知られるビーカー人が住んでいました。そこへ鉄器を持つケルト人が移入してきたのが紀元前7世紀頃とされます。なかでも有力だったのがブリテン人でした。紀元前1世紀にはローマが進出を始め、5世紀初頭まで属州ブリタニアを運営します。ゲルマン族におされて衰退した古代ローマがブリテン島から撤退すると、ユトランド半島周辺から、ゲルマン族のアングル人、ジュート人、サクソン人が渡ってきます。いわゆるアングロ・サクソン人です。ブリテン人を制圧したアングロ・サクソンは、ブリテン島の南部から中部に七つの王国を築きます。七王国時代と呼称されますが、7つの主要国以外にもブリテン人の国も含めた多くの部族国家が林立していました。

七王国は、北にアングル人のノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア、南にはサクソン人のウェセックス、エセックス、サセックス、そしてジュート人のケントで構成されます。西進するサクソン人と激しく戦ったブリテン人の中からアーサー王伝説のモデルが生まれたともされます。9世紀には、ゲルマン系ノルマン人であるデーン人、いわゆるヴァイキングがブリテン島に進出してきます。そもそもアングロ・サクソンが、ブリテン島へ渡ったのは、スカンディナビアのデーン人がユトレヒト半島に進出してきたためでした。アングロ・サクソンは、再びデーン人に圧倒されることになったわけです。七王国で最後に残ったウェセックスのアルフレッド大王は、激戦の末、デーン人との棲み分けを確立します。

アルフレッド大王の孫のアゼルスタンは、イングランドを統一し、初代イングランド王となります。デーン人の第二波が押し寄せると、イングランドはデーン朝となります。一旦、王朝を取り戻したアングロ・サクソンでしたが、11世紀、ノルマン・コンクエストによってノルマン朝に取って替わられます。ノルマン朝は、征服王朝として強大な王権を実現し、部族社会は終わりを告げます。また後継のプランタジネット朝も含め、フランスにも領土を持ち、宮廷や役人は、フランス語が公用語となります。その後、百年戦争でフランスの領土を失い、薔薇戦争でテューダー朝が誕生すると、絶対王政の時代を迎えます。テューダー朝の後継者がいなかったことで、スコットランド王がイングランド王を継承し、ステュワート朝が誕生します。

スコットランドは、ピクト人やスコット人が支配してきましたが、14世紀後半からフランス起源のステュワート家が王となっていました。ステュワート朝は、イングランド、アイルランド、スコットランドの王として君臨します。以降、ドイツ系のハノーヴァー朝、そして同じくドイツ系のウィンザー朝へと続き、現在に至ります。思えば、中央アジアでフン族が勃興した余波が、次々と欧州の際のブリテン島を襲い、重層的な文化基盤を生んだと言えます。重商主義、植民地主義、市民革命、産業革命を経て誕生した大英帝国は、まさにこの多様性がゆえに成立したと考えられます。ブリテン島は、どん詰まりの際(きわ)の島であり、いわば欧州の吹きだまりのような島だったからこそ発展したのでしょう。際では様々なことが起こるものです。気になるのは、同じように際の島である日本で吹きだまり現象が起こらなかったことです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷