2023年5月16日火曜日

ウチナーンチュ大会

沖縄の鶏の丸焼き専門店「ブエノチキン」へたどり着くまでは、時間がかかりました。普天間に南米風ロースト・チキンの店があることは、本か雑誌で知りました。沖縄が受けた南米文化の影響に興味があったので、是非とも行ってみたいと思いました。ただ、知っている人は少なく、かろうじて浦添に越したという情報を得ました。その後、家族で沖縄に行った際、浦添の店へたどりつくことができましたが、なんと休業日。さらに後日、出張した際、移動中に店に寄ってもらい、ようやく食べることができました。パリパリに焼けた皮と強烈なニンニクの風味がやみつきになりそうな味でした。ブエノチキンは、1982年、南米帰りのご夫妻が普天間で創業、浦添に2号店を開きます。その後、2代目が浦添店一本に絞ったようです。

かつて、那覇で、スペイン語を話すおばさんに会いました。その流暢さに驚くと、沖縄にはスペイン語を話せる人がそこそこいるよと言われました。多くの沖縄県民が、南米へ移民し、なかには帰国した家族も、あるいは家族の一部だけが沖縄に戻ったケースもあるわけです。2011年、沖縄に出張した際、1990年から5年毎に開催される「世界のウチナーンチュ大会」に遭遇しました。沖縄にルーツを持ち、各国で暮らす移民とその家族が、世界中から集まります。琉球新報が長期連載した「世界のウチナーンチュ」という記事に触発された当時の沖縄県知事・西銘順治が始めたイベントです。2011年は第5回大会にあたり、各国から5千人を超える移民家族が集まりました。

日本における海外移民は、1868年、明治元年のハワイ移民153人に始まっています。幕末に来日したハワイのカメハメハ4世の要請によるものでした。その後、話が違うといった契約や待遇に関わる問題が頻発したものの、戦前には77万人、戦後には26万人が海外移住しています。最も海外移住者が多い県は広島県で11万人となっています。沖縄県は9万人で第2位ですが、戦後に限っては第1位となっています。沖縄戦で荒れに荒れ、かつ米軍に接収された農地に絶望した農民たちが移住を選択したものと思われます。沖縄からの移住先は、戦前はハワイ、ブラジル、ペルーが多く、戦後は、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアが大層を占めています。ウチナーンチュ大会期間中の那覇は、南米風の人々であふれています。

ウチナーンチュ大会は、前夜祭、パレード、開会式で始まります。親睦会、シンポジウム、物産展も行われますが、海外ウチナーンチュによる琉球民謡、琉球舞踊、エイサー、琉球芝居、琉球古武術等の発表会が、各所で開催されます。私は、古武術の発表会を見学しましたが、各地でかなり稽古を積んできたとみえ、レベルの高い演武になっていました。歌や踊りも同様でしょうが、単に故郷を懐かしむということに留まらず、自らのアイデンティティーを確認するために厳しい稽古を積んできたのでしょう。琉球文化へのこだわりは、移民生活の厳しさの裏返しと言うこともできます。太平洋戦争直後、ブラジルの日系社会で、日本の敗北を認めない戦勝派、敗北を受け入れる認識派が激しく対立し、テロ事件が頻発した切ない歴史を思い出しました。

さて、話はブエノチキンに戻りますが、私が訪れた浦添の店は、わずかなイートイン・スペースのある小さな店でした。いかにも細々と経営しているといった風情でした。ロースト・チキンという食文化のなかった沖縄では、なかなか受け入れてもらえず、売れるのはクリスマス・シーズンだけだったようです。ただ、TVで取り上げられたことをきっかけに大ブレークし、今や沖縄の食の定番の一角を占めるまでになりました。先代のお嬢さんが跡を継ぎ、現在は、同じ浦添市内におしゃれで大きな店舗を構えるに至っています。移民しても、帰国しても、ものになるまでは、相当の時間を要するということでしょうか。(写真出典:ryukyushimpo.jp)

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