2023年5月22日月曜日

「TAR」

監督: トッド・フィールド   原題:TÁR    2022年アメリカ

☆☆☆☆

(ネタバレ注意)

2023年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞、脚本賞などにノミネートされた作品です。トッド・フィールド監督が、ケイト・ブランシェット主演を念頭にオリジナル脚本を書き、彼女の出演が実現しなければ、制作を断念するつもりだったようです。脚本を気に入ったケイト・ブランシェットは、主演どころか、プロデュースまで引き受けています。彼女の演技は、キャリア・ベストとまで高く評価され、ヴェネツィアやゴールデン・グローブ賞等で主演女優賞を獲得しています。高名な指揮者で同性愛者のリディア・ターによるグルーミング等のハラースメント、そして、それによる没落を描いています。リディア・ターは架空の人物ですが、ボルティモア・フィルのマリン・オールソップがモデルとも言われているようです。

映画がテーマとしているのは、いわゆるキャンセル・カルチャーやハラースメント、あるいは権力が持つ危険性なのでしょう。キャンセル・カルチャーとは、言動が世間の非難にさらされ、社会的に抹殺(キャンセル)されることを指します。昔から存在したわけですが、近年は、SNSが、それを加速させています。ネットは、すべてのインターミディアリを抹殺すると思いますが、音楽界の奥の院のような守られた世界ですら、既にバリアを失っているということなのでしょう。映画の冒頭、ジュリアード音楽院のクラスで繰り広げられるハラースメントは、2014年の映画「セッション」(原題: Whiplash)を想起させます。また、グルーミングは、ハーヴェイ・ワインスタインやジャニー喜多川を思い起こさせます。

しかし、この映画の特筆すべきところは、そういったテーマそのものよりも、158分という長さにもかかわらず途切れること続く緊張感、一切押しつけがましところのないドラマ展開だと思います。それは、スロー・シネマが特徴とするテイストを持っていますが、ドラマ的なテンポをもって展開されています。その独特な表現は、監督の高い力量を感じさせます。そして、その不思議なテイストを生み出している要因の一つが、音楽というモティーフの使い方だと思われます。再現芸術としての音楽の世界は、権力を生み出しやすく、ハラースメントが起こりやすい世界だと言えます。厳密で保守的な音楽界を通して、観客は、ごく自然に権力とその弊害を認識していきます。そこには、余計な説明もドラマも必要ありません。

そうした表現方法において、最も重要になるのは、ターの演じ方ということになります。私利私欲のために権力を振るう独裁者はいません。国のため、国民のためと思い込み、独裁に走るものです。役得を求めて権力を乱用するなど小物のすることです。リディア・ターという役柄にも、音楽界の頂点に立つ揺るぎない自信と確信、そして権力乱用との認識などみじんもない思い込みが求められます。それを演じられるのは、ケイト・ブランシェットだけだという監督の判断は極めて正しかったと思います。ケイト・ブランシェットは、現代最高峰の女優だと言えるのでしょう。アカデミー賞における2度の受賞、6度のノミネートはもとより、なにせ女神、女王、そしてボブ・デュランまで演じているのですから。

ターへの抗議が形を成し始めると、その心の揺れも、音をモティーフとして表現されていきます。地位を追われた、つまりキャンセルされたターは、マニラと思しき街に降り立ちます。誤って紹介された売春宿で、居並ぶ女性の中から相手を選ばされます。オーケストラの中から餌食を選んでいた過去のフラッシュ・バックです。ラスト・シーンで、ターはゲームの大会でオーケストラを指揮することになりますが、客席はコスプレをした無表情の若者ばかりです。SNSの時代となり、若者たちから反撃を受けたターを象徴しています。モティーフとしての音楽では、マーラーの交響曲第5番が使われています。マーラー絶頂期の作品であり、第4楽章「アダージェット」は世界で最も美しい曲の一つだと思います。マーラーがこの曲を書いたのは、世間からの悪評によってウィーン・フィルの指揮者を辞任させられた直後でした。(写真出典:eiga.com)

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