2023年5月24日水曜日

上下定分の理

林羅山
湯島聖堂は、元禄3年(1690年)、5代将軍徳川綱吉によって創建されています。上野忍岡の林羅山の私邸にあった孔子廟と家塾を移転したものです。聖堂は、度重なる江戸の大火で焼け、かつ幕府が実学重視へと舵を切ったこともあり、その後しばらくは廃れていたようです。ただ、1797年になると、幕府直轄の昌平坂学問所、いわゆる「昌平黌(しょうへいこう)」が併設されることとなり、再興されています。明治になると、政府直轄とされ、文部省、博物館、図書館、あるいは師範学校等として使われました。聖堂は、関東大震災で瓦解しますが、現在も運営を担う斯文会が中心となって、1935年に復興されます。その際、現在の大成殿、いわゆる孔子廟は、寛政期の建屋を模してコンクリートで再建されました。

平生は訪れる人もまばらな湯島聖堂ですが、受験シーズンには合格を祈願する学生たちが多くお参りするようです。孔子の霊にすがりたい気持ちは分からぬではありませんが、神仏ではないので、多少、違和感を感じます。我が家の初詣は神田明神と決めていますが、子供たちが学校に通っている間は、帰りしなに湯島聖堂にもお参りしていました。孔子、あるいは儒学の学ぶ姿勢にあやかりたいと思ってのことです。儒学には「聖人学んで至るべし」という言葉があります。ただ、孔子の言葉ではありません。12世紀に北宋の程頤、南宋の朱熹によって確立された新しい儒学、朱子学の理想を伝える言葉とされます。聖堂の元になった孔子廟を祀っていた林羅山は、日本における朱子学普及に大きな役割を果たした儒家とされます。

林羅山は、京都に生まれ、幼少の頃から神童と呼ばれるほど優秀だったようです。建仁寺で仏教を学びますが、僧にはならず、冷泉家出身の儒学者・藤原惺窩の弟子となり、朱子学を学びます。家康から出仕を求められた藤原惺窩は、自分に替わって高弟の羅山を推挙します。羅山は、家康以降の4代の将軍に仕えることになりました。将軍に儒学を講義するばかりではなく、幕府の政策立案に深く関与し、幕府の土台を築いた一人とされます。大坂の陣の直接的きっかけの一つとされる方広寺鐘銘事件において、鐘銘中の「国家安康」「君臣豊楽」の2文が、家康を呪詛し、豊臣の栄華を願うものと断じたのが林羅山でした。狡猾な言いがかりに過ぎませんが、家康と羅山の関係のあり方が如実に現れていると思います。

家康は、朱子学の世界観である”理気説”や”性即理”に心酔したわけではなく、武家や社会を統制するために”君臣父子の別”といった道徳的側面だけを利用しました。また、羅山もそのことを十分以上に心得たうえで、自らに利していたのでしょう。まさに蛇の道は蛇という関係です。羅山の”上下定分の理”は士農工商という身分制度の理論的背景となり、”存心持敬”は過度に礼儀作法・法度を重んじる風潮を生み、儒学の官学化を図るために儒学・神道以外を排斥したことは鎖国政策につながりました。羅山の思想は、幕府の安定、ひいては江戸期の安泰を生んだ面も否定できませんが、一方で官僚主義と硬直的な社会を作ったとも言えます。羅山の硬直的な朱子学は、江戸中期、様々な批判にさらされたものの、結局、260年続きました。

幕末に起こった尊皇思想は、江戸期に徹底された”君臣父子の別”に基づくと言われます。朱子学を利用した幕府が、飼い犬に手を噛まれたようなものです。260年続いた朱子学の影響は、明治維新後も、そう簡単には消えず、現在にもそのよすがを残していると言えます。興味深いことに、藤原惺窩の朱子学は、中国からの直接的伝来ではなく、文禄・慶長の役の際、李氏朝鮮からもたらされたものだったようです。李氏朝鮮は、朱子学を統治理念とし、他の宗教・学問を一切禁止し、社会の隅々にまで徹底させました。朱子学による統治は500年続き、その硬直性が近代朝鮮の苦難の要因になったと言われます。日本は260年で済んだとも言えますが、家康の換骨奪胎的な朱子学の利用が傷を浅くしたとも言えそうです。なにやら、実に日本的ないい加減さを感じさせる話でもあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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