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16世紀末江戸周辺 |
大都市江戸を生んだのは、江戸期の天下太平だったわけですが、計画的、かつ大規模なインフラ整備によるところも大きかったのでしょう。埋め立てや河川の付け替えといった大規模な土木工事、上水道の建設、螺旋状の外濠に沿った水運の確保など、水を征したからこそ世界一の都市は生まれたと言えます。家康が、まず着手したのは、日比谷入江等の埋め立てですが、同時に、東京湾に注ぐ暴れ川を付け替えて太平洋に流す利根川東遷、行徳塩田の塩を安全に効率良く江戸城に運ぶ小名木川開削にも取り組みます。埋め立ては当初から水路を通すことが計画され、利根川東遷は洪水対策のみならず新田開発や水運も目的とされ、開削された小名木川の南北でも新田が開発されました。グランド・デザインの壮大さに驚かされます。
上水開発は、井の頭湧水を取り込む神田上水、多摩川の水を羽村付近から取水する玉川上水等が開発されます。上水は、地中に張り巡らされた木製の樋を通して庶民に届けられます。17世紀にあっては、世界最高水準の上水設備だったようです。また、城の石垣はもとより、各土木工事にも多くの石材が使われています。その多くは、伊豆半島から切り出された硬質の安山岩であり、船で江戸へ搬送されました。山中から切り出し、積出港まで下ろし、船積みするわけですから、大変な重労働です。石材を江戸へ運ぶために3千を超える船が建造され、うち時化等にあって沈んだ船は300叟と記録されます。石材の切り出しから運搬までも、他の工事と同じく、各大名に割り振られました。
天下普請は、大名にとって、大きな負担だったことは、各藩に残る文献からも明らかです。徳川政権による大名統制は見事なものであり、それゆえに260年の平和が実現したとも言えます。天下普請も、ギリギリのところで大名の忠誠を試すとともに、大名の財力を削ってゆく政策だったと思われます。ところが、不思議なことに、不満を抱える大名たちによる倒幕の動きはありませんでした。むしろ、競い合うように普請に取り組んでいます。もちろん、日本の主要部を握った幕府と親藩の武力に敵わないということでしょうが、武家諸法度、参勤交代等の統制策も効いていたのでしょう。参勤交代は、大名の財力を削るという面もありますが、何よりも正室と世継ぎを江戸に留め置くというえげつない人質政策でした。
幕府の命令に抗うことは難しかったわけですが、普請を競い合う構図の背景には、幕府の巧みなインセンティブ・システムが効いていたとも言えます。武力を背景とした強制だけではなく、普請への取組や成果によっては、官位の昇進や領地の拡大という人参もぶら下げられていました。太平の世になると、戦いによって領土を広げる可能性は無くなり、幕府への忠誠だけが残された道になったわけです。武力こそ武家のレゾンデートルですから、各藩は武力の維持に努めますが、明らかに武士のあり方は変質し、棘は抜かれたと言えます。それこそ家康が天下普請によって狙ったことなのでしょう。家康の最も優れた点は、その構想力だったように思えます。天下普請は、単に大都市・江戸を誕生させただけでなく、江戸期の太平をもたらし、近代日本発展の礎を築くことになったわけです。(写真出典:shiseki-chikei.com)