2023年5月29日月曜日

狼の墓

歴史上、最大の領土を誇った国は、全盛期の大英帝国だったとされます。世界の陸地と人口の1/4が大英帝国傘下にあったとされます。カナダ、オーストラリア、インド、アフリカ諸国等を支配していたことを考えれば納得できます。大英帝国に次ぐ第2位は、モンゴル帝国となります。西は東ヨーロッパ、東は朝鮮半島、南はミャンマー北部まで、全陸地の20%を領土としました。1206年、モンゴル高原の諸部族を統一したテムジンが、部族の最高会議であるクリルタイでハーンに即位し、チンギス・ハーンと名乗ります。モンゴル帝国の始まりです。チンギス・ハーンの祖先は、天からバイカル湖畔に降り立ったボルテ・チノ(蒼き狼)とその妻コアイ・マラル(青白き鹿)だとされます。

モンゴル軍の圧倒的な強さは、騎馬兵にあると言われます。当時の欧州軍と比べると違いがよく分かります。欧州軍は歩兵中心で、騎士団は貴族等一部に過ぎませんが、馬が無ければ生きていけないモンゴルでは、兵のほぼ全てが熟達の騎馬兵です。モンゴル軍の機動性の高さは歴然です。かつ、各モンゴル兵は、数頭の予備の馬を同行させることで、長距離を早く移動し、かつ戦場では勢いのある馬に騎乗できました。槍と刀剣による白兵戦を主体とする欧州軍に対して、モンゴル軍は騎射の達人が揃い、距離をとった攻撃が可能でした。戦い方の違いは、欧州軍の重い金属の甲冑、モンゴル軍の軽い革製の甲冑にも現れています。ただ、騎馬兵は中国や欧州の軍には脅威でしたが、同じ遊牧民に対する優位性はありません。

モンゴル軍の、今一つの強さは、組織力と統制力だとされます。当時の戦争では、大きな方針は共有されても、戦場における戦い方は隊長である諸侯に任されます。モンゴル軍は、千人隊長、百人隊長、十人隊長と組織が階層化され、本陣からの指示が速やかに伝達されたと言います。ポーランドで欧州連合軍が完敗した”レグニツァの戦い”では、モンゴル軽装騎兵が前線を騎射で蹴散らした後、一旦、偽装退却します。これを追った欧州軍の騎士団は、左右から騎兵攻撃を受け、全滅。さらに、その後方には煙幕が焚かれ、分断された歩兵はモンゴルの重装騎兵に突入されます。このように巧妙な戦術を可能にしていたのが、モンゴル軍の組織統制力だったわけです。

ちなみに、レグニツァの戦いを征したモンゴル軍は、数日のうちに、トランシルヴァニア、ハンガリーの各軍を撃破し、ウィーンに迫ります。ところが、突如、モンゴル軍は進軍を止め、撤退を開始します。第2代ハーンのオゴデイの死が伝えられ、モンゴル軍は葬儀に参列するために帰国の途に就いたのでした。モンゴル軍の統制力の高さを表わす出来事でもあります。ナポレオンは、良い兵士とは速く走れる兵士だ、と言っています。モンゴル軍の統制力と機動力は、近代戦に通じるところもあるのでしょう。それにしても、モンゴル軍の突然の撤退は、モンゴルにとっての戦争目的は何だったのか、という疑問にもつながります。また、欧州の深い森が、モンゴル軍の優位性を失わせたという説もあるようです。

チンギス・ハーンの墓は、いまだに判明していません。埋葬に関わった兵や葬列を目にした民衆は全員殺された、あるいは埋葬場所は千頭の馬で踏み固めて痕跡を消したとも言われます。現在、有力候補地は2つあるようです。チンギス・ハーンの末裔とされる高齢女性が、一族で守ってきた秘密を明かし、陵墓は四川省カンゼ・チベット族自治州にあると発言しています。また、各国による科学的探索によって、モンゴルのヘンティー山脈にあるブルカン・カルドゥンが陵墓であるとの見方が有力視されているようです。ただ、いずれも発掘調査は行われていません。モンゴル人の地面を掘り返すことを嫌う傾向、あるいは民族の英雄の墓を曝くことへの強い拒否反応に配慮しているとされます。蒼き狼は、死してなお強い影響力を持っているわけです。(写真出典:sekainorekisi.com)

マクア渓谷