2022年3月8日火曜日

米穀手帳

山口良忠判事
終戦から2年後、食糧難にあえぐ日本で、衝撃的なニュースが報道されます。当時の東京区裁判所の山口良忠判事が、闇米を拒否し、配給米だけを食べ続け、栄養失調のために亡くなりました。山口判事は、経済事犯専任判事として、主に闇米を所持する食糧管理法違反を裁いていました。闇米所持を裁くものが、闇米を食べるわけにはいかない、という筋を通した壮絶な死でした。1942年に制定された食糧管理法は、主食の受給と価格安定のために、米、その他穀物、いも類の生産・流通を国が統制する仕組みです。敗戦後も、食糧難のなか、配給制を維持するために存置されました。配給する食料にも事欠く状態であり、国民は、生き延びるために、闇米はじめ闇物資に頼らざる得ませんでした。他にも、東京高校の亀尾英四郎教授、青森地裁の保科徳太郎判事が、食管法を遵守し餓死しています。

山口判事は、経済犯を厳罰に処していたのではなく、かなり恩情的な裁きを行っていたようです。もちろん法は法ですが、司法当局が闇米の取り締まりを行った背景には、GHQの指示もあったようです。日本の飢餓状態が世界に喧伝されると、占領政策がうまくいっていないとの批判を浴びる恐れがあったため、GHQは、司法当局に、闇米の取締強化を指示したとされます。そんなことで、食糧事情が変わるわけもなく、結局、日本に対する食料援助が開始されます。その主力となったのが、いわゆる”ララ物資”です。LARA(Licensed Agencies for Relief in Asia)は、盛岡出身の在米ジャーナリスト浅野七之助が設立した”日本難民救済会”が母体でした。1946~1952年まで行われたララ物資は、当時の金額で、総額400億円分に達したと言われます。

1950年代半ばになると米の生産量は拡大し、食管法の意義も薄れます。ただ、価格統制、および農民の収入確保へと性格を変えて、存続されます。政府が農民から高く米を買い、安く消費者に売るわけです。水田も増え、生産性も上がったことから、在庫、いわゆる古米も発生し、食管会計は赤字になっていきます。1969年には自主流通米がスタートします。その後、1981年には、食管制度の目的は、統制から管理に下げられ、流通の自由化が進みました。そして、GATTウルグアイ・ラウンド合意に基づき、日本は、米の輸入を認めざるを得なくなり、1995年、食管法は廃止されました。日本の農業政策は、戦略性や計画性に欠けると言われます。食管法は、その象徴だったわけです。工業化に伴う労働人口の移動、土地の高騰、自民党の大票田としての農村部といった要素との兼ね合いも難しく、政策がブレ続けた面も否定できません。

実態と大きくかけ離れた食管制度下では、結構、奇妙なことも起こっていました。1981年の法改正まで、国民は米穀配給通帳、通称米穀手帳なるものを持たされていました。要は配給を受けるための通帳です。身分証明書の役割も担っていたようですが、いつの頃か有名無実化します。実家にもあったのでしょうが、見たこともありません。ただ、1966年、小学校の修学旅行の際、家から米を持参させらたことを覚えています。皆が持参した米を炊いたとも思えませんし、宿にも米が無いことなどなかったはずです。既に、そんな時代でもなく、まったく無意味な対応ですが、食管法上の建前として、宿泊施設は、米穀手帳の提示、あるいはそれに替わる米の持参を求めざるを得なかったのだと思います。多くの場合、宿も宿泊者も、当局ですら無視していたはずです。ただ、公立学校としては、法令違反するわけにもいかなかったのでしょう。

大学のゼミは、新自由主義をテーマにしていました。国防的観点から食管法を見直した方がいい、と発表したら、ボコボコにされました。ネオ・リベラルな観点からすれば、食管法など悪の権化だったわけです。ただ、新自由主義で全ての問題を解決できるわけでなく、国防もその一つだと考えたわけです。食料の受給を国が統制する時代ではないとは思います。ただ、無制限な自由化によって、食料の自給率がゼロになる可能性もあります。その方が効率的ではあるかも知れませんが、有事の際に兵糧攻めされると、日本は即刻崩壊します。食管法とは言いませんが、輸入元の多角化や食料備蓄といった政策とともに、ある程度の生産を確保する仕組みがあってもいいように思います。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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