五代目古今亭志ん生 |
粗忽噺のなかで最も演じるのが難しいと言われるのが「粗忽長屋」です。浅草寺で素性の知れない行き倒れがあり、それを見た八っあんは、長屋の熊さんだと確信します。「今朝も具合が悪いと言ってたからな」と言う八っあんに、周囲の人は、行き倒れたのは昨晩だから別人だよ、と言います。いや、熊に違ぇない、あいつはそそっかしいから気がついてねぇんだ、今、呼んでくらぁ、と八っあんは長屋へ一目散。お前は死んだと言われても納得いかない熊さんでしたが、八っあんに丸め込まれて浅草寺へ行きます。死体を抱きかかえ、抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だ、と下げます。
粗忽どころか、もはやシュールな世界です。それを笑いを取りながら、最後まで聞かせるには、相当の芸が求められます。名人を通り越して達人と言われた五代目志ん生は、テンポ良く軽妙に進めます。五代目小さんは独特の間とテンポで引き込みます。談志は、勢いでもっていきます。談志は、粗忽長屋を、主観性がテーマの落語だと言っていますが、確かに聞きようによっては哲学的かも知れません。まったく異なる意味で傑作だと思うのが上方落語の「持参金」です。随分と図式的な噺だけに、演じ方、落とし方が難しい面があると思います。もとは「逆さの葬礼」や「捨米」という古典落語であり、現代感覚では陰惨と言える落ちを削ったものだと聞きます。
番頭はんが、清さんに、催促なしで貸した20円を今晩中に返してくれと言ってきます。困った清さんのところへ金物屋の佐助はんが縁談を持ってきます。器量が悪く、しかも臨月ながら、20円の持参金付きと聞き、清さんは即決し、その晩、祝言を挙げます。翌朝、番頭はんが金を取りにきます。清さんは、今、金が届くと答えます。金を待ちながら、番頭はんが、急に金が入り用になったわけを話し出します。実は、番頭はんが手を付け妊娠させた女中が臨月を迎え、困っていると、金物屋の佐助はんが、20円用意したら、後は何とかしましょうと請け合います。そして、佐助はんは、清さんのところへ縁談を持ち込んだのでした。清さんは20円を番頭に返す、番頭は20円を佐助に渡す、佐助はそれを持参金として清はんに渡す、清はんがそれを番頭に返す、という構図です。金は天下の回りもの、というわけです。
聞いていて心地良くなるほど流暢な語りの米朝は、いつも軽妙な芸で笑わせてくれます。その弟子である枝雀は、メリハリのきいた語りに独特な身振りを加えて演じます。いずれも大阪ことばの達人ですが、師匠の温かみのある笑いに対して、弟子は爆笑系という違いがあります。枝雀の「持参金」は、やや演じることに汲々としている印象があります。爆笑系にとっては不向きな噺かも知れません。高座の天才ぶりとは異なり、枝雀は至って生真面目な人でした。芸道の探求に身も心も捧げ、プレッシャーとの板挟みになった枝雀は、鬱病を患い自殺します。志ん生は、満州で死線を越えたことで一皮むけ、天衣無縫の達人になったと言います。枝雀も、何か、一皮むける機会さえあればと、今更ながらに悔やまれます。(写真出典:asahi.com)