2022年3月23日水曜日

中将姫

当麻曼荼羅(復元)
日本初の入浴剤は、1897年に津村順天堂が発売した「浴剤中将湯」だとされます。もっとも、お風呂に、塩、菖蒲、ゆず等を入れる風習もあり、また湯ノ花もありました。中将湯は、工業的に精製された初の入浴剤という意味なのでしょう。津村順天堂の従業員が、婦人薬の余った材料を持ち帰り、お風呂にいれたところ、体が暖まり、アセモが治ったことがきっかけとなり、開発された商品だそうです。その後、1930年、中将湯をもとに”バスクリン”が発売されています。かつて、入浴剤と言えば、バスクリンでした。バスクリンは、1960年以降、内風呂の普及とともに、一般化していったようです。

さて、その中将湯ですが、名前の由来は、なかなかに興味深いものがあります。津村順天堂の創業者・津村重舎は、奈良県の出身で、母方の実家である藤村家には、婦人病に効くという秘薬が代々伝わっていました。これを全国に広めるために創業されたのが津村順天堂でした。藤村家の言い伝えによれば、ご先祖が、逃げる途中の中将姫を匿ったことがあり、その礼に、薬草に詳しかった姫が秘薬の作り方を伝授してくれたということでした。その言い伝えに基づき、中将湯と名付けられ、かつロゴマークには中将姫が描かれました。中将姫は、奈良の當麻寺に伝わる国宝「綴織当麻曼荼羅図」を一夜で織り上げたという伝説で知られます。中将姫の伝説は、すべて実在の人物で構成されています。ただし、姫を除いては、ということになりますが。

8世紀前半、子供に恵まれなかった右大臣藤原豊成は、長谷観音に祈願して、中将姫を授かります。姫が幼少の頃、実母は亡くなり、豊成は後添えを迎えます。子供の頃から色彩兼備だった中将姫は、9歳のおり、天皇の前で琴を奏で喝采を浴びますが、その場で継母はうまく箏が弾けず、恥をかきます。継母は、中将姫を恨むようになります。豊成が不在の時、継母は、家臣に姫の殺害を命じます。しかし、不憫に思った家臣は、姫を殺さず、一緒に雲雀山に潜伏します。豊成は、嘆き悲しみますが、翌年、狩りに出かけ、姫と再会します。姫は、16歳で天皇の后に召されますが、これを辞退し、當麻寺の一人の尼のもとで修行します。中将姫は、中将法如という名前をもらい、出家します。役目を終えたといって山を去る尼に、姫は浄土経を渡します。後日、姫は、自分が渡した浄土経が、弥勒如来像の手に握られているのを見つけます。

姫が称讃浄土経一千巻を写経すると、再び尼が現われ、蓮を集め、糸を撚るよう求めます。そして、千手堂に籠もった中将姫は、その糸で、一夜にして「綴織当麻曼荼羅図」を織り上げます。すると尼は、阿弥陀如来に姿を変え、13年後に迎えに来ると言って消えます。果たして、13年後、満月の夜に来迎した阿弥陀如来とニ十五菩薩に連れられ、姫は極楽浄土へと旅立ちました。以上は、あらすじですが、伝説には、さらに多くの仏教的説話や奇跡が含まれています。當麻寺の創建は、7世紀とされますが、中将姫伝説の成立時期は不明です。ただ、文献上は、鎌倉時代に至って、登場し、広がりを見せているようです。室町時代には、よく知られた話となり、世阿弥や近松門左衛門も題材として取り上げています。

鎌倉時代は、公家政治が武家政治に変わり、仏教界でも大きな変動のあった時代です。浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗が生まれ、臨済宗、曹洞宗という中国伝来の禅宗も起こります。世の中が騒然とするなか、大衆化された仏教では、末法思想が広がり、阿弥陀仏の西方極楽浄土へと注目が集まります。もともと奈良盆地の西方に位置する二上山は、西方極楽浄土への入り口に擬されていました。その麓に位置する當麻寺は、西方極楽浄土を描いたという当麻曼荼羅を本尊とし、急速に人気が高まったようです。中将姫伝説は、日本の政治、社会の大きな変化を反映して生まれた伝説だと言えるのでしょう。ちなみに、国宝「綴織当麻曼荼羅図」は、分析の結果、蓮の糸ではなく染色した絹による綴織であり、中国伝来のものとされているようです。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷