当時の明石町で、朝霧のなかにたたずむ女性を上品に描いたのが、鏑木清方の傑作「築地明石町」です。1927年の帝展で帝国美術院賞を受賞し、清方を大家の地位に押し上げたと言われます。後に描かれた「新富町」、「浜町河岸」と併せて、美人画三部作を構成しています。国立近代美術館で、清方没後50年を期して開催中の鏑木清方展を見てきました。「築地明石町」は、淡い背景に、黒い羽織の女性が見返るという構図が美しい絵ですが、間近に見ると、清方の職人技が光ります。うっすらと描かれた外国船のマストや洋館が朝霧の気配を見事に伝えます。水浅葱の無地と思っていた単衣は、江戸小紋でした。また、袖をかき合わせる手には金の指輪が細密に描かれていました。
「新富町」では普段着を粋に着こなす芸子、「浜町河岸」では踊りの稽古帰りの娘が描かれています。「築地明石町」は、清方夫人の女学校時代の同級生がモデルとなっています。写真を見ると、モデルご本人も、知性的な、なかなかの美人です。しかし、なぜ明石町なのかと思っていましたが、他の2作の髪形が日本髪なのに対して、「築地明石町」では、当時、イギリス巻と呼ばれた最先端の髪形になっています。文明開化の風情ならば、明石町で間違いないわけです。不思議なことに、「築地明石町」は、清方の死後、44年間、行方不明だったそうです。これだけの名作が行方不明というのも妙な話ですが、いずれにしても再発見後、近代美術館が購入しています。
鏑木清方は、上村松園、伊東深水と並んで、美人画の大家と言われます。ただ、当人は、美人画は依頼されたから描くだけであり、絵空事ではない庶民の生活こそが自分のテーマだと語っているようです。正直言って、松園と、清方では、世界がまるで違うと思います。はんなりとした松園の絵ですが、描いているのは女性そのものです。対して、清方は、人ではなく風情を描いていると思います。清方の美人画のなかで、モデルが存在し、目元がキリッとした「築地明石町」は、むしろ異例の作品と言えます。他の作品の多くは、岡本かの子風に言えば、”煙るような長い睫”の瞳が描かれています。竹久夢二なども典型ですが、夢見るような瞳は、大正期の流行だったようです。個人的な印象ですが、それが後の少女漫画に引き継がれているように思います。清方の作品は、美人画というよりも風俗画だと理解すべきなのでしょう。
清方は、ジャーナリストであった父が経営する新聞の挿絵から画業を始めています。その後、文芸誌の挿絵や表紙を、生涯、描き続けています。清方展にも、多くの挿絵や表紙の原画が展示されています。清方は、幼少期、父の関係から三遊亭円朝に可愛がられ、画家を目指すようアドバイスを受けたようです。今回の展示のなかでは、「築地明石町」と並ぶ傑作として「三遊亭円朝像」が挙げられます。明治を代表する不世出の落語家円朝の人柄や芸風まで感じられるような作品です。清方の江戸への憧憬には、円朝の影響があるのかも知れません。(写真出典:artexhibition.jp)