2022年3月28日月曜日

「ベルファスト」

監督:ケネス・ブラナー    2022年アイルランド・英国

☆☆☆☆

「新藤兼人というえらい脚本家が『誰でも一本は傑作を書ける。それは自分の周囲の世界を書くことだ』と言っている。」脚本家の中島丈博が、その自伝的作品「祭の準備」(黒木和雄監督、1975年)で書いたセリフだと記憶します。本作は、ケネス・ブラナー自身がベルファストで過ごした幼少期を描いており、傑作になったと思います。時代設定は、1969年。北アイルランドでは、米国の公民権運動の影響を受け、カソリック系住民による差別撤廃を求める運動が起こります。英国からの移住者が多いプロテスタント系住民が、これを襲い、その後30年続く北アイルランド紛争が始まりました。宗教を越えて、貧しい人たちが肩を寄せ合い生きてきたベルファストの下町は、物騒な町へと変わっていきます。

貧しさと紛争が、バディ少年の家族を、幸せだったベルファストからロンドンへと移住させます。紛争はともかくとしても、地方から都市部への労働力の移動は、経済の発展とともに、世界中で起きたことです。多くの人々が、バディ少年と同じ経験をしているわけです。幸せだった田舎での少年時代が失われていく構図は、人間の成長過程そのものでもあります。失われた過去は、甘く、切なく、愛おしいものです。貧しさや紛争があったにしても、少年時代やベルファストの下町への深い愛情が、この映画を幸せ感あふれる映画にしています。世界中の人々が、自らの体験と重ね合わせ、この映画を愛することになるのでしょう。ゴールデン・グローブ賞では脚本賞を獲得、アカデミー賞でも作品賞や脚本賞にノミネートされています。

社会批判ではなく、家族愛をテーマとし、少年時代を、ひたすらに愛おしく描ききったことことが、この映画の成功要因だと思います。脚本の良さ、そつのない演出、テンポの良さに加え、キャスティングの良さも光ります。バディ少年役のジュード・ヒルは、希に見る大発見だったと思います。他にも、祖父母を演じたジュディ・デンチとキアラン・ハインズは、ベテランらしい見事な演技を見せています。母親役のカトリーナ・バルフは、”アウトランダー”の時とはまったく異なる表情を見せ、愛らしくもたくましいママを演じ、印象に残りました。そして北アイルランド出身の殿堂入りミュージシャンであるヴァン・モリソンの音楽が素晴らしく、本作の主役と言っても言い過ぎではありません。演出はもとより、音楽も、演技も、脚本の良さに魅了され、とても良い化学反応を起こしたのでしょう。

アリッシュを”百敗の民”と言ったのは、司馬遼太郎です。直感的には言い過ぎだと思いますが、歴史的に見れば、確かにうなずけます。かつて中央アジアから欧州に進出したケルト人は、ゲルマン人に押され、西へと移動し、ブルターニュ、アイルランド、スコットランド、ウェールズに定着します。その後は、永らくイングランドの支配を受けてきました。その間、19世紀半ばには、じゃがいも飢饉が起き、アイルランド人の1/4が餓死、1/4がアメリカへと移住します。アイルランドが、英連邦下とは言え、独立したのは1922年のことです。その際、北アイルランドだけは、英国に留められました。アメリカに渡ったアイリッシュは、プロテスタントの抑圧を受けながらもしっかりと根を張り、大統領も何人か輩出、かつピューリタンの国にあって、ケネディ、バイデンとカソリック系大統領まで生みました。やはり”百敗”は言い過ぎかも知れません。

シェークスピア俳優としてのケネス・ブラナー卿は、ローレンス・オリヴィエ卿の再来とも言われる英国演劇界の重鎮です。そのうえ、監督としても、成功しています。舞台やシェークスピア劇の映画化だけではなく、マーベル映画やディズニー映画の監督でも成功し、最近は、「オリエント急行殺人事件」で監督・主演してヒットを飛ばし、「ナイル殺人事件」も公開されています。監督に演技にと多忙を極めるなか、よくこんな映画を撮れたものだと感心します。才能は、時間をも味方につけるものなのかも知れません。(写真出典:cinematoday.jp)

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