2022年3月27日日曜日

喫茶店文化

大正期のカフェー
飲料としてのコーヒーの起源は、2説あります。イエメンのモカで聖職者シーク・オマールが発見したという説と、エチオピアの羊飼いカルディが発見したという説です。豆を煮だして飲むことは古くから行われていたようですが、14世紀頃には焙煎されるようになり、イスラム社会で広がっていったようです。16世紀初頭には、カイロで世界初と言われる喫茶店が登場します。16世紀末、コーヒーは、オスマン・トルコを訪れていた商人たちによって欧州に伝えられ、17世紀には、ロンドンに欧州初の喫茶店がオープンしています。不思議なことに、イスラム社会でも、欧州でも、喫茶店は、誕生直後から、政治や文化を語り合う場所という性格を持つことになります。

コーヒーそのものの効果ではなく、知識階級が好んで飲んだこと、人が語り合える場所が少なかったことが、喫茶店文化を生んだのでしょう。日本における喫茶店の草分けは、1888年開業の上野の可否茶館だと言われますが、浅草、神戸、日本橋説もあります。1911年には、伝説のカフェ・パウリスタが、銀座にオープンし、安価にコーヒーを提供し、地方にも店を広げたことから、日本にコーヒー文化を広めたと言われます。カフェ・パウリスタはじめ、喫茶店は、次第に料理や酒も提供するようになります。人が集まる場所という背景があったからなのでしょう。ところが、関東大震災の後、喫茶店は、日本独自の興味深い展開を始めます。カフェーという名の風俗店の登場です。

看板娘で店が繁盛するなど、世界中どこにもある話であり、江戸の茶店の看板娘は浮世絵にも描かれています。ただ、カフェーでは、女給が、派手なメイクに派手な着物を着て、客に体をすり寄せるサービスなどが売りでした。もはや喫茶店ではなく、今風に言えばクラブということになるのでしょう。もちろん、コーヒーそのものを売りにする喫茶店もあったわけですが、思えば、このカフェーが、風変わりな日本の喫茶店文化の始まりだったのでしょう。1950年代以降、ジャズ喫茶、ラテン喫茶、名曲喫茶、歌声喫茶等が流行し、その後も、ゲーム喫茶、ノーパン喫茶、漫画喫茶、メイド・カフェ等、日本独自の特殊な喫茶店が時代とともに生まれてきました。一方で、60年代後半には、ごく普通の喫茶店が、わざわざ純喫茶と名乗らなければならないほどでした。

ジャズ喫茶や名曲喫茶は、日本の貧しさに立脚した良いアイデアだっとも言えます。高級なオーディオ装置や膨大なレコード・コレクションは、経済的にも、家の構造からしても、個人ではなかなか持てません。他の特殊な喫茶店も、特殊なサービスを手軽な形態で、安価に提供するという構造は同じです。日本の大衆文化は、喫茶店という便利な代物を“発見”したわけです。それにしても、この日本独特の喫茶店文化は、なぜ生まれたのでしょうか。理由は定かではありませんが、原点ならば室町時代に始まった茶屋文化にあると思われます。15世紀には、立売の茶屋が広まり、縁日の定番になります。さらに峠や宿場街に店構えをした茶屋も登場しています。そして江戸期に入ると、芝居茶屋、相撲茶屋はじめ、色茶屋、引手茶屋といった遊郭系、お座敷遊びの待合茶屋、密会場所の出会茶屋等へと多様化していきます。

京都の花街は、祇園花見小路の「一力」はじめ、お茶屋で構成されています。お茶屋は、料亭ではありません。あくまでも貸席業であり、料理は料理屋からの仕出し、芸子舞子は置屋から送り込まれます。もともとは、門前や歓楽街の茶屋から始まったようです。八坂神社前の祇園甲部・祇園東部、北野天満宮前の上七軒などです。江戸では、待合茶屋と呼ばれていました。極めて特殊な日本の喫茶店文化ですが、実は400年の歴史を持っていたわけです。(写真出典:tokuhain.chuo-kanko.or.jp)

マクア渓谷