佐伯祐三「煉瓦工場」 |
そもそも新しい美術館開設のきっかけとなったのは、1983年、メリヤス王として知られた山本發次郎のコレクションを、遺族が大阪市に寄贈したことでした。山本發次郎は、佐伯祐三のコレクターとして有名でしたが、芦屋の瀟洒な自宅が空襲で焼け、多くの収蔵品を失っています。ただ、賢明なことに、主要なコレクションは、事前に疎開させていました。空襲を逃れたコレクションのすべてである580点が、市へ一括寄贈されたわけです。山本發次郎は、岡山県の出身で、一橋大卒業後、今のカネボウに就職し、その後、山本家に婿養子として入ります。先代が起こしたメリヤスの製造販売業を継いで大いに発展させます。また、戦後は、ヘアカラーにも進出して”パオン”などの製品をヒットさせました。
山本發次郎は、もともと墨跡の収集家だったようです。天皇や高僧の書をコレクションしていました。1922年、欧州を訪れた山本發次郎は、洋画にも関心を抱くようになります。佐伯祐三の作品に惹かれるようになったのは、1932年頃だったようです。その時、佐伯祐三は、既に世を去っていました。佐伯祐三は、1928年、自殺未遂の後、パリで客死しています。享年30歳という若さでした。最高作といわれる”煉瓦工場”や”郵便配達夫”は、死の年に描かれています。それまでの印象派的な作風から、図太い線が印象に残る力強い作品へと変わっていました。佐伯祐三の没後にコレクションを始めた山本發次郎は、高僧たちの書を佐伯祐三に見せたかった、と語っていたようです。
山本發次郎は、線に魅せられたコレクターなのだと思います。墨跡のコレクターならでは感性が、モディリアーニを、ユトリロを、そして佐伯祐三を”発見”することになったのでしょう。そういう意味では、その趣味は、趣旨一貫していたわけです。建築史家で政治家でもある橋爪紳也は、山本コレクションを、東洋と西洋を結びつけた個性尊重の芸術感と評しているようです。結びつけたのではなく、線に注目することで、東洋、西洋を超越した芸術世界を見い出した、と言うべきかも知れません。伊達俊光は、山本發次郎を評した文章のなかで「蒐集も亦創作なり」と言っています。本来的なコレクターに対する最大の賛辞であり、金に飽かして美術品を買いあさる成金への批判でもあるのでしょう。歴史に残る名言だと思います。
大阪中之島美術館のオープニングは「超コレクション展~99のものがたり」と題した企画展となっていました。要は、山本發次郎コレクションはじめ、寄贈された多くのコレクションを、感謝の意味を込めて展示したということなのでしょう。先々、是非とも、山本發次郎の線に対するこだわりを企画展にしてもらいたいものだと思います。(写真出典:naka-art.jp)