蒸気機関車による世界初の実用鉄道は、1825年に英国で、石炭輸送のために開設されています。その5年後には客貨両用鉄道が開通しています。日本には、1853年、ロシアのプチャーチンが、艦上に蒸気機関車の模型を積んで来日し、実際に動かして見せたようです。また、1854年には、ペリーの2度目の来日の際、米国大統領から将軍への献上品として、人が乗って動かせる蒸気機関車の模型が持ち込まれています。ペリーの浦賀来航とタイミングがあったとも言えますが、蒸気機関車は、英国での営業開始後、比較的早い段階で、日本に導入されたと言えます。その後、官民併せて、鉄道の建設ラッシュが起きています。驚異的とも言われる日本の近代化の背景には、この鉄道の普及があったということなのでしょう。
とは言え、鉄道の導入は、すんなり決まったわけではないようです。鉄道建設推進派は、蘭学・英学を学んだ大隈重信、英国へ密航した長州ファイブの伊藤博文と井上勝などでした。一方、反対の声は、国民の間でも、政府内部でも大きく、西郷隆盛も反対、特に黒田清孝は強硬だったと言われます。反対意見の多くは、財源に関わるものでした。敷設に莫大な資金を要する鉄道建設ですが、当時、政府資金が乏しい状況にあり、海外からの融資に頼らざるを得ませんでした。この外国からの借金が批判されたわけです。伊藤や井上が、反対派の説得に努めますが、結果的には、黒田が海外視察を行い、鉄道の必要性に目覚めたことで、急遽、鉄道建設が開始されています。百聞は一見にしかず、というわけです。
井上は、その後も、あくまでも官営鉄道にこだわったようですが、政府資金が厳しいことには変わりなく、明治政府は、民間資本の導入に舵を切ります。1881年設立の日本鉄道はじめ、私鉄による建設ラッシュが起こります。レールが敷かれると、産業が興り、街が形成されていきます。全国津々浦々にまで及んだ鉄路敷設は、まさに日本の近代化をリードしたわけです。また、戦後の復興も、鉄道再建が大きな柱となったと言えます。こうして、鉄道=経済発展という公式が定着し、日本人の鉄道好きが形成されてきたわけです。「鉄道と美術の150年」展は、その間の歴史をよく伝えています。しかし、高度成長期を迎え、産業構造の転換が起きると、この勝利の公式には陰りが見えるようになります。
陸上輸送の主役はより効率的なトラックに替わり、乗客はより早い航空機に移っていきます。それでも鉄道好きの日本は、鉄道にこだわり続け、高速道路や空港の整備、あるいは航空産業育成に出遅れます。日本の鉄道の現況は、新幹線と大都市圏以外では、苦境にあり、廃線や経営悪化が続きます。その新幹線ですら、営業収支はともかくとして、1kmあたり70~100億円と言われる建設コストも含めた投資効率としては、疑問と言わざるを得ない路線もあります。にも関わらず、整備新幹線の延伸計画が複数存在しています。人口減少と産業衰退が続く地方にあって、新幹線開通は悲願であり、地方再生の切り札というわけです。複雑化した社会構造のなかで、150年前と同じ発想が続いていることは、もはや驚きとも言えます。(写真出典:sayusha.com)