2021年12月7日火曜日

アナタハンの女王

1944年、比嘉和子は、夫とともにアナタハン島に移り住みます。夫は、”海の満鉄””とも呼ばれた国策会社の南洋興発に勤務しており、椰子油の原材料となるコプラ生産のために派遣されました。アナタハン島は、サイパンの北117kmに位置する北マリアナ諸島の小島であり、第一次大戦以降は、日本の委任統治下にありました。攻勢を強めた米軍の爆撃によって夫は死亡、島民たちも逃げ出し、島には夫の上司と和子だけが残ります。そこに爆撃された徴用船から漂着した日本兵など31人が上陸します。南洋興発からの食料補給も途絶え、33人は、自給自足のサバイバル生活に入ります。

上司と和子は、事実上の夫婦として、日本兵たちとは離れて生活します。終戦を迎えると、米軍が投降を呼びかけますが、日本人たちは、敗戦を信ぜず、立てこもります。1946年、島に墜落した米軍のB-29の残骸の中から、拳銃4丁が見つかり、部品を組み立て、2丁が使用可能な状態になります。この拳銃が、島のバランスを崩し、悲劇を生んでいくことになります。拳銃を持ったリーダー格の日本兵が、上司を殺害し、和子を”妻”にします。そのリーダーも、殺害されます。その後も、さらに2名が変死しています。和子と食料を巡る争いが、殺人に発展していったものと思われています。後に、和子は、自分を争って死んだのは2名だけだと証言しています。

争いが続くのは、和子のせいだという空気が生まれ、身の危険を感じた和子は、1950年、米軍に投降します。帰国した和子は、島に残る日本人の救出を訴え、翌1951年には全員が救出されます。32名いた男たちは、20名に減っていました。殺害されたのは4名、他は事故、衰弱死等だったと見られています。帰国した男たちは、多くを語りませんでした。また、証言したとしても、保身的要素が加わるせいか食い違いが多く、真相は分からないままとなりました。殺人事件ゆえ、捜査されるべきところです。ただ、アナタハン島は、終戦とともに日本の委任統治を離れ、かつ米国による信託統治が決まった1947年までは、どこの国にも属さず、よって捜査対象でもありませんでした。

事の真相は不明ですが、和子を巡る若い男たちの争いとも、和子が女王としてすべてを仕切っていたとも言われます。この事件は、「アナタハンの女王事件」として、扇情的な報道によって世間の注目を集め、ブームの様相まで呈したようです。帰国後、和子は、映画に出演したり、舞台に立ったりしていたようです。度胸の据わった行動とも言えますが、悲しい居直りと見るべきかも知れません。ただ、ブームが去ると、故郷の沖縄に戻り、再婚して、2人の子供を産み、飲食店「アナタハン」を経営します。1979年、和子は、脳梗塞で死亡しています。戦後6年を経て救出された男たちも、妻が再婚しているケースが複数あるなど、厳しい帰国になったようです。

アナタハンで起きた事件の背景には、残留日本兵問題と同様、戦陣訓があることは明らかです。「生きて俘虜の辱めを受けず」というわけです。さらに組織化されていない集団のエゴのぶつかり合い、そして家父長制による女性差別が特徴的な事件なのでしょう。和子は、守ってくれる”夫”がいなければ、より悲惨な状況になっていたことでしょう。同時に、”夫”の存在が、集団内に暴力を生み出していくことになります。また、マスコミによる加熱した報道合戦は、今も変わらぬ問題だと思います。帰国後の和子のつらさは、筆舌に尽くし難いものだったはずであり、アナタハン島にいた時よりも、一層過酷なものだったと思われます。生存能力の高い和子は、本能的に”居直る”ことを選択して生き抜いたと言えるのでしょう。(写真出典:bunshun.jp)

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