飯田房太中佐 |
第三中隊を率いる飯田房太大尉(戦死後は二階級特進して中佐)は、カネオヘを攻撃し、ベローズを叩き、再びカネオヘ攻撃を行います。その際、飯田大尉の操縦するゼロ戦は、燃料タンクに被弾し、燃料を失います。飯田大尉は、僚機に燃料切れを伝える手信号を送り、手を振って基地格納庫へと突入します。米軍は、飯田大尉の勇敢な行動に敬意を表し、基地内に埋葬し、1971年には、記念プレートも設置されています。2016年、ハワイ訪問中の安倍首相は、海兵隊ハワイ基地を訪れ、記念プレートに献花しています。その際、「悪魔の辞典」で知られるアンブローズ・ビアスの「勇者は、勇者を敬う」という言葉を引用し、米軍に感謝しています。
飯田房太大尉は、山口県の旧家に生まれ、海軍兵学校を5番という優秀な成績で卒業します。その後、霞ヶ浦海軍航空隊で学び、パイロットになります。1940年には、無敵と言われた新鋭機ゼロ戦を操縦して成都攻撃に出撃。ゼロ戦飛行隊は、敵機全機を撃墜し、勇士として賞賛されました。しかし、飯田大尉は浮かれることなく、地上部隊が速やかに重慶・成都を占領できなければ、日本は大変なことになる、と語っており、近代的な総力戦の何たるかを正確に、かつ冷静に把握していたようです。そして、翌年、蒼龍からハワイ攻撃へと飛び立ちます。飯田大尉の英雄的な最後については、後にJALのパイロットとなる部下の藤田怡與藏中尉等の証言があります。ただ、藤田中尉たちの証言とは、多少異なる話も伝わります。
南洋の撃墜王として知られた角田和男中尉が、蒼龍の艦上爆撃機パイロットから、無理矢理、聞き出したという話です。ハワイ攻撃の前日、飯田大尉は、部下を集めて「この戦は、どのように計算してみても万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生きて、国の行方を見守ってもらいたい」と訓示したというのです。この訓示については、ハワイ攻撃当日のうちに、蒼龍艦内に厳しく箝口令が敷かれたと言います。藤田中尉は、飯田大尉の機は被弾したものの、帰投できないほどのダメージではなかった、と証言していますが、前夜の訓示については記憶にない、とも話しています。
ただし、藤田中尉は、ハワイへ向かう途上、飯田大尉が、被弾したら、目標を見つけて自爆する、と話していたことは記憶していました。今となっては、前夜の訓示は、事実か否か、分かりません。いずれにしても、飯田大尉の厳しい覚悟は明確です。かつ、大戦の帰趨を、極めて冷静に分析していたことも、うかがい知れます。それは、最後まで日米開戦に反対し続け、かつ真珠湾攻撃の指揮をとって英雄となった山本五十六連合艦隊司令に重なるものがあります。(写真出典:ja.wikipedia.org)