ゴトビキ岩 |
2011年、新宮市は台風12号による水害で大きな被害を受けました。そのお見舞いのために、新宮市を訪問しました。まずは、羽田から飛行機で南紀白浜まで飛びます。便数は少ないものの、約75分のフライト。白浜からは特急で2時間半ですが、時間が合わず、車で移動しました。迎えてくれた和歌山支社長から、山の道、海の道、いずれを行きますか、と聞かれました。近い方で行こうと答えると、いずれも3時間半かかると言うのです。氾濫した熊野川の様子を見るために、山の道を選びました。10時半くらいに丸の内本社を出て、新宮市に到着したのは、夕方5時を回っていました。夕暮れの新宮は、商店で買い物をする主婦たち、道で遊ぶ子供たち、帰宅する生徒たち、と懐かしい昭和の風情を感じさせました。
新宮は、日本書記にも登場するほど古い歴史を持つ土地であり、熊野三山の一つ熊野速玉大社を擁する町です。徐福伝説が残ることから、少なくとも、古代には渡来人もいたのでしょう。中世から近世にかけては、南紀の要衝としての存在感を示しますが、最も栄えたのは、明治期以降であり、熊野の木材の製材、そして積出港として大いに賑わいます。当時、新宮には日本中の芸者が集まった、と言われるそうです。もちろん、大袈裟に過ぎる話ですが、いかに町が潤い、賑わっていたか、ということ伝える話です。安い外国木材が入り始めた戦後、町は急速に勢いを失っていきます。土地の人に聞くと、異常にスナックの多い町だと言います。漁師が多い、娯楽が少ない、といった背景も考えられますが、恐らく隆盛を誇った時代の残り香なのでしょう。
新宮の背面にそびえる神倉山の南端に、ゴトビキ岩と呼ばれる巨岩があり、町を見下ろしています。ゴトビキ岩を御神体とする神倉神社では、毎年2月、「御燈祭(おとうまつり)」という例大祭が行われます。神が、毎年始に、人々の使う火を、浄化したうえで授けるという意味があるようです。夜8時頃、白装束の氏子たちが、松明を持って、538段の石段を一気に駆け下ります。源頼朝が寄進したという石段は、大きな自然石を積み上げただけのものであり、石段というよりも、岩場の登山道といった趣です。それを男たちが密集して全速力で駆け下ります。勇壮な火祭りなどと悠長なことを言っている場合ではありません。危険極まりない、とんでもない祭りです。誰かが足を滑らせれば、数人の首が折れることは間違いありません。
新宮市は、人口27,000人ですが、熊野地方の中心都市として、商圏は約10万人になるようです。しかも大都市圏からは距離があるので、独立性の高い商圏と言えます。町の規模のわりには、商店も多く、大型商業施設等もあります。また、歴史の古い町らしく教育熱心でもあり、優秀な人材を輩出しています。新宮出身者には、佐藤春夫、中上健次など、学者や文化人が多いと聞きますが、近畿・東海一円にスーパー・マーケットを展開するオークワ創業の地でもあり、ホームセンターのコーナン創業者・疋田耕造の出身地でもあります。(写真出典:tripadvisor.jp)