アルバム名:COR DE ROSA E CARVAO(1994) アーティスト:マリーザ・モンチ
2010年に、前立腺ガンという診断を受けました。結果的には、小さく、かつ安定しているので、毎年、PSA検査だけ行うということになりました。昨年、再び生体検査を行いましたが、同様の結果で、向こう10年くらいは何もする必要がないと言われました。ただ、最初にガンの告知を受けた際には、もはやこれまでか、と思いました。悲しかったものの、良い人生だったなと思え、多少は死を受け入れることができたように思います。そんな時、マリーザ・モンチの「Onde Andarás?」を聞くと、なぜか気持ちが落ち着き、冷静になれました。アンニュイなムードのなかに、少し自己憐憫をにじませ、失った恋を歌っています。カエターノ・ヴェローゾの曲ですが、「Cafe Brasil」(2001)のなかで、マリーザ・モンチがカバーしています。以来、マリーザ・モンチを、よく聞くようになりました。特に、このアルバムの ”Danca Da Solidado”、”De Mais Ninguém”などはお気に入りです。特にハマったのが”Esta Melodia”です。あの人が去って、残ったのはこのメロディ、といった内容の歌です。ヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラを従えたマリーザ・モンチは、モダンなセンスも加えながら、しっかりとサンバの伝統に則って歌い上げています。”ママ”と呼ばれたクレメンティーナ・デ・ジェゾスが、アルバム”RAINHA QUELE”で歌った曲のカバーです。
ヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラは、リオの名門サンバ・チーム”ポルテーラ”の長老たちで構成されています。新聞記者だったマリーザ・モンチの父は、ポルテーラの一員であり、ポルテーラは、いわばマリーザが育った場所でもあります。2000年、マリーザは、忘れられていたヴェーリャ・グアルダ・ダ・ポルテーラを集め、アルバム「Tudo Azul」をプロデュースし、自らも歌っています。さらに2010年には、自らが案内役を務めて、初期のポルテーラを探るドキュメンタリー映画「サンバのミステリ」を発表しています。ポルテーラの歴史と同時に、自分自身の音楽的ルーツを探っていたのでしょう。映画のラスト近く、多くの人々が集まったポルテーラの練習場で、マリーザとヴェーリャ・グアルダの面々は、”Esta Melodia”を楽しそうに歌います。実に感動的なシーンでした。
マリーザ・モンチは、エリス・レジーナ亡きあとのMPBの女王と呼ばれます。MPBとは、ムージカ・ポプラール・ブラジレイラの略であり、ブラジルのポップという意味です。サンバやボサノヴァよりも、欧米のポップスの影響が濃い、現代的な音楽です。少しザラついた透明感とでも言いたくなるような彼女の独特な声は、他の誰とも似ていません。その声は、知的でモダンな印象を与えます。ただ、いかにMPBの先頭を走るとは言え、他のブラジルの音楽家同様、彼女の音楽的センスは、サンバで形作られています。カリオカと呼ばれるリオの下町っ子たちが、貧乏な生活のなかで生み出したサンバこそ、マリーザの音楽的原点なのだと言えます。
サンバの歴史ははっきりしないものの、西アフリカから連れてこられた奴隷たちが、教会音楽はじめ欧州の音楽と出会い、生まれたものと言われています。ブラジルの近代化とともに、労働者が都会へと集まっていきます。都市の最下層を形成する労働者たちは、貧しい生活のなかで肩を寄せ合い、助け合って生きていきます。その際、辛い日々の憂さ晴らしとして、自然発生的にリオのサンバが生まれます。仕事の最中に思いついたメロディや歌詞を持ち寄り、数々の名曲が生まれていきます。ポルテーラの正式名称は、”Grêmio Recreativo Escola de Samba Portela”です。サンバ・チームの名称には、”Escola”が入ります。学校という意味ですが、流派、あるいはチームといったところなのでしょう。リオのサンバやエスコーラは、音楽やダンス以上に連帯の象徴なのだと思います。(写真出典:discunion.net)