2021年12月16日木曜日

通州事件

殷汝耕
我々以降の世代は、日中戦争に関して、断片的で曖昧な知識しか持っていないように思えます。それが気になり、会社の若い人たちに、日中戦争について聞いたことがあります。結果は、案の定、ひどいものでした。多少マシな人でも、満州国はうろ覚え、盧溝橋事件以降は太平洋戦争の一部という理解です。中学・高校の現代史は、学期末で飛ばされることが多いという大問題に加え、日中戦争自体の分かりづらさもあります。日中戦争の15年という長さ、それに至る前史の長さもありますが、日本対中国と言いながら、独立的に動く当事者が多いことも一因です。中国は、統一途上にあり、国民党、共産党、地方軍閥が入り乱れ、日本も、政府、軍部、関東軍がバラバラに動き、司令官や参謀の独断専行も頻発します。

そして、分かりにくさの最大の要因は、当事者が多すぎるために、事件や謀略が複雑に重なって戦線が拡大し、ついには全面戦争化したという経緯にあると思います。日中戦争の特徴の一つは、宣戦布告なき戦争だったことです。日本も、国民党政権も、諸外国からの干渉を避けたいという思惑があり、宣戦布告しませんでした。また、実態的な特徴として、衝突が発生する都度、現地での停戦協定が結ばれ、かつ、それが頻繁に破られるということが挙げられます。当事者の全てが、都度都度の停戦協定に参加しているわけではないことも一因ですが、停戦に合意した当事者による協定破りも頻発しています。要は、中国北部が、アナーキーな分捕り合戦の場になっており、各所で、日々、戦闘は行われているものの、それは国家と国家の戦争とは呼べない異常な状況にあったように思えます。

日中戦争を、広く捉えれば、1931年の柳条湖事件からということになります。日露戦争後、ロシアから譲渡された南満州鉄道を、関東軍が自ら爆破し、中国東北軍の仕業とした事件です。報復として、関東軍は、奉天攻撃を皮切りに、満州全域を制圧し、1932年、傀儡政権満州国を建国します。一方、狭く捉えれば、1937年の盧溝橋事件からということになります。北京西南の盧溝橋付近で演習中だった日本軍に、銃弾が撃ち込まれ、戦闘へと発展します。例によって、停戦協定が結ばれますが、ほどなくして協定破りが起こり、戦線は拡大していきます。停戦協定が結ばれた直後、北京の南東部、通州で、冀東防共自治政府の保安部隊によって、日本兵と日本人居留民が虐殺されるという事件が起きています。

冀東防共自治政府は、蒋介石の日本語通訳を勤め、国民政府の幹部でもあった殷汝耕が、1935年、日本軍の後押しで成立させた自治政府です。ただ、日本軍が訓練したその保安隊は、国民党非主流派の宋哲元が率いる国民革命軍第29軍とつながっており、共産党による浸透工作も行われていました。盧溝橋事件以降、29軍と日本軍との戦闘が継続されるなか、日本軍が保安隊を誤爆し、また国民党政権が、近く蒋介石自ら29軍を率いて通州を攻撃するとの虚偽情報を放送します。これに反応した保安隊は、殷汝耕を逮捕し、日本軍を壊滅させます。さらに、中国人学生たちも加わり、日本居留者385名中223名を、凄惨な方法で惨殺します。日本のマスコミは、事件をセンセーショナルに報道し、通州事件以降、日本人の対中感情は、極端に悪化したと言われます。また、同年、日本軍が住民を虐殺した南京事件の遠因とも言われます。

戦後、東京裁判に提出された通州事件に関する証言や証拠は、裁判長によって却下されています。また、主犯とされる保安隊の張慶余は、事件後、国民党軍に合流し、中将まで上り詰めています。凄惨を極めた通州事件は、日中戦争の特徴が集約された事件だったとも思えます。長城以南への進軍に反対した天皇、暴支膺懲を掲げ南進する日本軍の謀略、これを煽る日本のマスコミ、バラバラだった中国をまとめていった抗日機運、これらの結節点にあったのが通州事件だったと思います。ここで双方による冷静な分析と対応が行われていれば、その後の展開は大いに違っていたのでしょう。(写真出典:ja.wikipedia.org)

マクア渓谷