冬至は、1年で最も日が短い日です。つまり北半球では、太陽の高度が最も低くなる日です。北極圏では、一切太陽が出ない極夜となり、南極圏では、太陽が沈まない白夜になります。冬至は、二十四節気の一つで、暦法上では、第1の月となります。正式には、この日、干支が切り替わります。太陽の力が最も弱くなる日であり、冬至を境に、太陽は生まれ変わるとされます。この先、太陽は、その力を増していくわけですから、年の始まりとされました。いわば運気の上がり始めとも言えます。宝くじは、冬至の翌日に買うと良いのではないか、と思います。
陰暦では、19年に一度、11月1日が冬至となり、大変めでたいこととして、宮中では宴が催されていたようです。これを”朔旦冬至(さくたんとうじ)”と呼びます。朔とは、新月のことであり、朔旦とは新月の日、つまり一日の朝という意味です。朔旦冬至の宴は、江戸中期まで続いていたようです。古代においては、世界中で、月の満ち欠けに基づき暦が作られました。いわゆる太陰暦です。ただ、太陰暦の1年は、地球が太陽を一周する日数より、11日少ないため、何年かすると暦と季節感にズレが生じます。これを調整したのが閏月です。1年が13ヶ月という年を作り調整したわけです。太陽の要素も加えた太陰暦という意味で、太陰太陽暦と呼ばれます。通常、太陰暦と呼ばれているのは、太陰太陽暦のことです。
太陰暦を初めて使ったのはシュメール人とされています。シュメール人も、暦と季節のズレを調整する必要があったわけですが、その調整法に関する文献は発見されていません。ただ、シュメール文化を受け継いだバビロニアでは、19年に7回、閏年を設けることで、ほぼ完全にズレを克服していました。バビロニア人は、地球が太陽を19回まわる日数と、月の満ち欠けによる暦の19年7ヶ月がほぼ等しいことを知っていたわけです。これはメトン周期と呼ばれ、世界中に広がります。古代中国にも伝わり、19年に一度の朔旦冬至も生まれるわけです。世界に伝播したスピードを考慮すれば、恐らくシュメール人が、メトン周期、あるいはそれに近いものを発見し、バビロニアやその他の国々に引き継がれたのではないかと思います。
それにしても、古代の天文学の発展については、いつも驚かされます。農耕の始まりとともに、余剰生産物から文明の社会的側面、そして生産管理から科学的側面が発展したわけです。文明の唐突な誕生と発展は、シュメール宇宙人説へとつながります。ロマンティックな話ですが、文明の誕生とは、生きるために必死で編み出した知恵の積み重ねだったのでしょう。その後、西洋では、カエサルが太陽暦への切り替えを行い、グレゴリオ暦へと発展しています。東アジアでは太陽太陰暦が継続され、日本では、明治の世になってグレゴリオ暦への転換が行われました。とは言え、古の二十四節気も、生活のなかに生き続けているように思います。(写真出典:livedoor.com)