伊丹十三は、1933年、知性派監督として知られる伊丹万作の長男として生まれます。高校卒業後、新東宝に商業デザイナーとして就職します。デザイナーとしての腕は、なかなかのもので、書籍の装丁などは、生涯続けています。ちなみに、アート・シアター・ギルドのロゴも手がけたことは有名です。その後、大映を皮切りに俳優へ転じ、「北京の55日」や「ロード・ジム」といった海外作品にも出演しています。俳優業を続けながら、執筆、TV制作、雑誌編集など、多才ぶりを発揮し、当代一流の文化人として知られました。1984年、「お葬式」で初めて長編映画を監督します。時に51歳、満を持しての監督デビューだったと言えます。大好評で、多くの賞を獲りました。思い入れたっぷりの映画でしたが、師と仰ぐ蓮實重彦の酷評を受け、以降は社会風刺を効かせたコメディに徹し、ヒット作を連発します。
監督デビュー前のことですが、伊丹十三の講演会を聞きに行ったことがあります。経団連主催の講演会であり、会場には多くのビジネスマンが詰めかけ、人気の高さを示していました。印象に残った話があります。この会場にいる皆さんは、レコード盤に例えれば、A面の人である。対して芸能人には、B面で生まれ育ち、なんとかA面に這い上がろうとしている人が多い。芸能界の競争は激しいが、コンプレックスが強いほど勝ち抜く力も強い、という話でした。自身も身を置く芸能界に対する冷静な目線は、距離感とも言えます。伊丹十三という人は、恐らく、どんな分野で仕事をしようと、一線を画した冷静さ、あるいは客観性を保ち、決して自分を失うことのない人だったのでしょう。
1997年、伊丹十三は、突然の死を迎えます。ワープロで打たれた簡単な遺書があり、飛び降り自殺とされました。週刊誌に不倫疑惑を書きたてられたことが原因ではないか、とも言われました。自殺直前、人は異常な精神状態にあるのだと思いますが、簡単すぎる遺書、しかもワープロ、いかにも伊丹十三らしくありません。不倫疑惑など、伊丹十三・宮本信子夫妻は、笑い飛ばしていました。当時、伊丹十三は、さる暴力団と創価学会との関係をリサーチし、新作映画にしようとしていたようです。様々な妨害もあったようですし、後には、殺害に関与したという暴力団員の証言も出ています。多くの関係者が、自殺はあり得ないとするなか、警察は、早々に自殺と断定します。他殺とする証拠・証言がなかったためでしょうが、早過ぎた結論には疑念も残ります。
「女たちよ!」は、ハイカラな蘊蓄だけで、ロングセラーになったわけではありません。体制を疑え、常識から自由であれ、自分自身の基準を持て、というメッセージが、あの時代の若者たちに響いたのだと思います。私たちの年代は、この本からダンディズムの何たるかを教わったと言えます。「女たちよ!」と言いますが、実は「青年たちよ!社会の家畜などにならず、独立した人間になれ!」が正しいタイトルだと思います。(写真出典:bunshun.jp)