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吉備大臣入唐絵巻 |
吉備真備は、奈良時代の学者にして官僚です。2度に渡る遣唐使を経験し、低い位から右大臣まで登り詰めました。717年、1回目の遣唐使の際には、阿倍仲麻呂や玄昉らと共に入唐しています。歴史、政治、音楽、天文などを学び、滞在期間は18年に及びます。玄宗皇帝に気に入られ生涯を唐で過ごした阿倍仲麻呂と並び、唐での評価は高かったようです。数年前、河南省で発見された唐代の官僚の墓誌が、吉備真備の筆になるものだったことが判明し、話題となりました。2度目の入唐は、752年、既に50歳代後半に入っていました。1年後、鑑真とともに帰国しています。その後、太宰府の事実上の責任者として、関係が緊張していた新羅、そして唐の安史の乱の影響に備えるために、防御態勢を整備するなどしています。
吉備真備の入唐に関しては、妙な伝説があります。その才能を妬んだ唐の役人たちから命を狙われ、数々の酷い迫害を受けますが、阿倍仲麻呂の生霊の助けを借りて、全ての危機を脱したというものです。なぜ、そのような伝説が生まれたのか、不思議なところです。吉備真備は、唐から陰陽道の聖典を持ち帰った陰陽道の祖とも言われます。陰陽道の箔付けのために生まれた伝説とも考えられます。また、日宋貿易が盛んな頃、宋に対する劣等感を払拭するために作られたという説もあるようです。いずれにしても、この伝説を後白河院が絵巻にさせ、「吉備大臣入唐絵巻」が生まれます。複数の作者が工房で作成したものとされているようです。素朴な描写といった印象を受ける絵巻です。
絵巻は、紆余曲折あって、幕末からは小浜藩主酒井家が所有していました。大正期、遺産相続の関係で競売にかけられ、大阪の古美術商が落札。転売をしようとした矢先、関東大震災が起こり、買い手が付かなかったようです。困った古美術商は、美術品の輸出を手がける山中商会に相談します。これに目を付けたのが、ボストン美術館の東洋部長になっていた富田幸次郎でした。国宝級の名作の海外流出ということで大騒ぎとなり、しかも日本人が仕掛けたことが問題視され、富田は国賊と罵られたようです。一方、「平治物語絵巻三条殿夜討巻」は、東京美術学校を創立したアーネスト・フェノロサが購入しています。フェノロサは、骨董商に、言い値の倍の金額を払い、売買に関する口止めを計ったとされます。
いずれもまっとうな商取引ではありますが、フェノロサの賢い対応には感心します。美術品の海外流出は、世界中で起きています。日本でも、結構な数の美術品が流出しています。ただ、略奪されたものは、ぼぼ皆無であり、商取引によるものがほとんどだと聞きます。国宝級と言われる美術品に関しては、明治期の流出が多いのですが、その背景には明治初期の廃仏毀釈運動があると言われます。天皇中心の国家体制を目指す明治政府は、神仏分離を打ち出します。江戸期を通じて、仏教寺院は幕府の社会管理システムの要でした。仏教に押されてきた神道は、ここぞとばかりに過剰に反応し、結果として、多くの仏教寺院や、その宝物類が失われました。全国の寺院の半数が被害を受けたと言われます。明治政府が意図したものではなかったとは言え、廃仏毀釈によって失われたものは大きかったと言えます。(写真出典:photo-make.jp)