2022年9月26日月曜日

薙刀

薙刀は、女性用の武術といった印象があります。しかし、もともとそうだったわけではありません。合戦を描いた絵巻物において薙刀は主役級であり、あるいは弁慶はじめ僧兵たちも薙刀を携えている印象があります。事実、平安から鎌倉期あたりまで、薙刀は、戦場における主な武器だったようです。相手との距離を確保しつつ、斬る、突く、打つことができるわけですから、馬上戦でも、徒歩戦でも威力を発揮する優れた武器だったと言えます。弱点としては、木製の柄が折れるリスク、あるいは相手が懐に飛び込んだ場合、対応できないということが挙げられます。薙刀が主役の座から陥落するのは、1467年の応仁の乱以降です。応仁の乱がもたらした戦場の変化が大きな要因です。

応仁の乱は、足軽の位置づけを高めました。平安時代から武士の補助役として存在していた足軽は、騎馬武者中心の戦場では出番がありませんでした。ところが、応仁の乱における京都市中での戦いでは、騎馬武者よりも、機動性に優れた足軽による奇襲が有効でした。下剋上という風潮も追い風となり、足軽は、その存在感を高め、戦場は足軽による白兵戦の時代へと突入します。いわば個人戦が集団戦に変わったわけです。徒歩での接近戦となると、薙刀が持つ優位性は失われます。代って主役となったのは、槍と刀でした。まずは槍で突き、叩き、そして接近戦を太刀で戦います。古代ローマ軍も、長い槍と短い剣を持った重装歩兵が、密集隊形を組んで戦いました。槍と刀は、白兵戦の基本だということです。

もちろん、そこで薙刀が消えたわけではなかったようですが、明らかに減っていったわけです。戦国時代後期になると、「薙刀直し」という打刀が登場してきます。薙刀の切っ先を落とし、茎を詰め、刀剣にしたものです。戦いを生き抜いてきた薙刀には、品質に優れたものが多く、「薙刀直しに鈍刀なし」とも言われたそうです。薙刀の刀身の短さから、脇差や短剣が多かったようですが、なかには長刀もあり、名品も少なくないようです。江戸期になると、実戦は無くなり、鍛錬としての武芸が盛んになります。薙刀も、剣術や槍術とともに流派が生まれ、武芸の一角を占めたようです。この頃、武家の女子に薙刀術が推奨されはじめたとされます。

江戸初期、幕府による銃刀所持規制は緩かったようです。ところが、江戸の町人の間で、帯刀が風俗化し、武士との区分けがつきにくくなったため、幕府は、1668年、町人による長刀の帯刀を禁じています。その後も、幾度かに渡り、禁令が出されたようです。いずれにしても、江戸期の身分制度上、苗字帯刀は、武士階級の特権とされました。ただ、女性も町人も護身のための短刀所持は許されていたようです。そして、武家の女子については、いざという時に家を守るために、薙刀の稽古が推奨されました。それに伴い、薙刀も小型化されていったようです。薙刀は、武家の嫁入り道具のひとつにもなっていました。明治になると、女性の薙刀術は、競技武道として広まります。つまり、女性の薙刀は、江戸幕府の身分制度が生んだものだったわけです。

余談になりますが、江戸期、「別式」と呼ばれる女性たちが存在しました。別式とは、各藩に召し抱えられていた武芸に秀でた女性たちのことです。奥と呼ばれる女性用の居住区画の警護、女性が外出する際の護衛を担い、武家の女性たちに薙刀等の稽古をつけてもいたようです。巴御前の昔から、武芸に優れた女性は、常に存在したということなのでしょう。ちなみに、薙刀には「巴型」と「静型」があります。刀身の幅が広く反りの大きい者が「巴型」、逆に幅が細く反りが少ないものが「静型」とされます。巴御前と静御前が愛用した薙刀に由来するものではなく、イメージから付けられた呼称のようです。(写真出典:the-ans.jp)

マクア渓谷