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割れる前の殺生石 |
どうやら風化が原因だったようです。さすがに、何か良からぬことが起きるのでは、と騒ぐ人はいなかったようです。殺生石に関する最も有名な伝説は、九尾の狐伝説です。12世紀初め、鳥羽上皇の寵姫に玉藻前という人がいました。色彩兼備の誉れ高く、欠けたところが一つもないことから玉藻前と呼ばれます。ある時、鳥羽上皇が原因不明の病に倒れ、高僧の祈祷も医師の治療も一切効きませんでした。ところが、陰陽師が玉藻前の仕業と見抜きます。真言を唱えると玉藻前は、九尾の狐となって空を飛び、那須に逃れたものの退治され、殺生岩になりました。岩となっても、その怨念は消えることなく、近づくものの命を奪い続ける、というわけです。
玉藻前には、実在モデルがいます。鳥羽上皇の后である美福門院です。美福門院は、我が子を皇位につけようと画策し、保元・平治の乱の原因を作ったとされます。貴族政治が武家政治に代るきっかけとなったわけですから、九尾の狐と言われてもやむを得ない面があります。九尾の狐伝説は、古代中国から脈々と受け継がれてきました。殷の紂王の后・妲己に始まり、天竺の摩竭陀国の斑足太子の妃・華陽夫人、そして周の幽王の后・褒姒も、実は九尾の狐が化けていたとされます。それが、遣唐使の吉備真備の船に乗って、日本へ渡ってきたというわけです。要は、歴史上、国家を存亡の危機にまで貶めた女性は、すべて九尾の狐が化けていたとされるわけです。
さらに殺生石の伝説は続きます。14世紀に実在した曹洞宗の僧侶・玄翁こと源翁心昭が、那須に立ち寄った際、住民が恐れる殺生石を一喝します。すると岩は砕け、全国各地に飛び散ったというのです。大工や石工が使う先が丸い金槌を玄能と呼ぶのは、この伝説に基づきます。また、殺生石が飛んだ先は、すべて””高田”という地名になったとされます。豊後高田、安芸高田、越後高田などです。美作高田の化生寺には、殺生石とされる岩が存在します。実に不思議な話です。恐らく、化生寺はじめ、玄翁が開山に関わった寺がある土地に高田が多いのだと思われます。ただ、なぜ高田なのかは不明です。玄翁は、越後荻村出身とされますので、越後高田と関係するのかも知れません。
能楽「殺生石」を観てきました。16世紀初頭、日吉左阿弥の作とされます。狐の化身である里女が、玄翁に、九尾の狐伝説を語ります。里女に素性を問うと、殺生石だと答えます。玄翁が、払子をふるって経を唱えると、殺生石は二つに割れて、野干(悪狐)が現われます。唐、天竺、日本で悪さをしてきたが、陰陽師に見破られたこと、那須で成敗され怨霊となったことを語ります。そして、玄翁のお経で成仏できたことを感謝して消えます。能楽「殺生石の見せ場の一つは、シンプルな舞台装置である”作り物”の殺生石が二つに割れて、野干が登場するシーンです。500年後、本当に、殺生石は割れたわけです。それを聞いたら、室町時代の人々は、腰を抜かして驚くことでしょう。(写真出典:chunichi.co.jp)