2022年9月3日土曜日

隠里

鶴富屋敷
新潟市内で、最も好きな店の一つが「秋山郷」です。郷土料理と地酒の店ですが、何よりも、旬のものをおいしく出してくれるところがお気に入りです。色鉛筆作家でもある美人女将と誠実な板さんが仕切る小ぶりな店です。大人気店ゆえ、なかなか予約が取れないので、店を広げたらどうか、と女将さんに言ったことがあります。私の目が届く範囲でやりたい、との答えでした。秋山郷の品質の高さを物語る話です。女将さんが十日町の出身なので、秋山郷と名付けたと聞きました。秋山郷は、新潟県と長野県の県境に位置します。深い山中にあり、陸の孤島とも呼ばれ、平家の落人の隠里として知られます。そのせいか、美人の産地としても有名です。

今でもアクセスが悪く、私も行ったことはありません。秋山郷に関して、忘れられない話があります。昭和の初め、測量のために県職員が秋山郷に入ると、村人が「まだ源氏は栄えているのか?」と聞いたと言うのです。かなり盛った話だとは思いますが、忘れがたい話でもあります。平家の落人伝説が残る土地は、全国に存在し、かなりの数に上ります。平家の末裔のみならず、平家の家臣や協力者の末裔も含まれるのでしょう。また、平家の落人と言えば、壇ノ浦の合戦の落ち武者というイメージがありますが、治承・寿永の乱、いわゆる源平合戦は、全国各地で、前後6年間に渡り戦われています。従って、落ち武者も各地に存在するわけです。また、源氏勢による追討が熾烈だったために、落人たちは、より奥地へ、より遠方へと落ちていったのでしょう。

平家の隠里とされる土地は、青森県から沖縄県まで広く分布しますが、やはり中四国、九州に多いように思えます。平家最後の戦いが、一ノ谷。屋島。そして壇ノ浦へと続いたからなのだと思います。中国地方では、福山の平家谷や尾道の百島、四国では祖谷渓、九州では五家荘、椎葉村、喜界島はじめ奄美列島などが良く知られています。なかでも、大分県の椎葉村は、悲恋の里としても有名です。椎葉村は、宮崎と熊本の県境にあり、山深い地域です。ここに逃れた平家残党に、那須与一の弟である那須大八郎の追討軍が迫ります。しかし、残党に戦意がないことを知った大八郎は、攻撃をせず、村に居座ります。平清盛の孫娘とされる鶴富姫と恋仲となった大八郎ですが、鎌倉から帰還命令が下り、姫と子供を残して、泣く泣く椎葉村を離れます。今も、椎葉村には那須家が存続し、鶴富姫が住んだとされる家が残ります。

椎葉村から熊本へ山中を進むと、五家荘に至ります。平重盛の三男・清経の一党が、緒方と名を変え、隠れ住んだとされる一帯です。ここには菅原道真の子孫も、隠れ住んでいたとされます。五家荘には、平家の官女であった鬼山御前の話が伝わります。屋島の戦いのおり、那須与一が、平家の軍船に乗った官女が掲げた扇を射抜いた話は、あまりにも有名です。その官女こそ玉虫御前、後の鬼山御前であり、清経に同行し五家荘に隠れ住んでいました。那須与一の子・小太郎は、平家追討のために五家荘に入ります。鬼山御前は、他の平家集落に行かせないよう、小太郎を引き留めます。いい仲になった二人は夫婦となり、子を設けました。鬼山御前は、乳の出がよかったと言われ、現在も乳の神様として祀られています。

ちなみに、五家荘の南には五木があります。五木には、五家荘の平家残党を見張るために源氏勢が住んでいました。源氏勢に虐げられた土地の人々が歌ったのが「五木の子守歌」だとされます。いずれにしても、ほど近い平家の隠里に、良く似た話が伝わることは不思議なことです。隠里が、源氏の追討勢に見つかった際、那須与一の血が入っていると言い張ることで、お目こぼしをねらったのではないかと想像します。いわば防御策の一環だったのでしょう。那須大八郎も小太郎も実在は疑われていますが、九州での源氏の追討が激しかったことは間違いないのでしょう。息をひそめて、ひたすら隠れ続けた秋山郷の残党に比べ、常に敵の気配を感じながら過ごさざるを得なかった九州の残党の知恵だったように思えます。(写真出典:pmiyazaki.com)

マクア渓谷