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呉羽丘陵 |
呉羽丘陵は、富山市の西に位置し、呉東側は断層が生んだ急斜面を持ち、呉西側は緩やかな丘陵になっています。小高い丘といった風情であり、地域を文化や言葉で二分するほどの高さはありません。呉東は、神通川の扇状地である富山平野と立山に続く山岳地帯で構成されます。呉西は、主に庄川と小矢部川の扇状地である砺波平野になっています。呉東・呉西を文化的に分けているのは、藩が異ったからではないかとも想像できます。というのも、富山市を含む、県中央部は富山藩であり、他は加賀藩でした。ただ、富山藩は、加賀藩の支藩であり、藩主は前田家です。そこに大きな文化的違いが生まれるとは思えず、また、争っていたというわけでもありません。
実に不思議だと思います。残る可能性の一つは、産業に起因する文化の違いです。富山平野も砺波平野も、豊かな穀倉地帯ですが、同時に、富山、高岡は、江戸期から栄えた産業の町でもあります。富山の売薬、高岡の鋳物です。富山の製薬の起源は、はっきりしていないようです。ただ、売薬の起源は、どうも富山藩2代藩主・前田正甫にあるようです。17世紀末、江戸城において腹痛に襲われた三春藩主に、前田正甫が富山反魂丹を服用させると、たちどころに回復したという話が伝わっています。以来、全国から富山の薬を求める声が起きたというわけです。前田正甫は、製薬を振興させるだけではなく、「他領商売勝手」を発行し、ここに富山の薬売りが生まれたとされます。
恐らく富山市の岩瀬湊も極めて重要な役割を担ったのでしょう。岩瀬は、室町期の「廻船式目」で三津七湊の一つとされており、北前船の重要な港でした。富山の薬売りは、陸路だけでなく、岩瀬から船で全国へ散っていったのでしょう。一方、高岡の鋳物は、17世紀初頭、前田家2代当主・前田利長が、隠居後に築城した高岡城の城下に、7人の鋳物師を招聘したことから始まっています。当初は、農具や日用品の鉄器製造から始め、19世紀には、銅器の鋳造が行われ、仏具、仏像、梵鐘等で名が知られることになります。前田利長が没すると、一藩一城令もあり、高岡城は廃城となります。ただ、加賀藩は、農産物の集積地、鋳物産業の町として、引き続き高岡を重要拠点としました。
要は、呉東には、売薬の商売人気質が根強く残り、一方の呉西には、鋳物文化を支えた職人気質が残ったのではないでしょうか。今でも、呉東はおおらかな気質、呉西はまじめな気質と言われるようです。頷ける話だと思います。2015年、北陸新幹線が、富山、金沢まで延伸されると、金沢の人気は、異常なまでに高まりました。それこそ、富山県の人たちが恐れた素通りリスクでした。以降、富山も高岡も人を呼び込む努力を続けてきたようです。富山市には、おしゃれでモダンな大型の箱物が多く作られ、高岡は、高岡城址、国宝瑞龍寺、高岡大仏、職人町といった歴史に根ざした魅力の発信を続けています。富山県には、実に多くの名物、名所があります。恐らく、これから富山県は、インバウンドも含め、金沢同様、あるいはそれ以上に多くの観光客を惹きつけることになると思います。(写真出典:city.toyama.toyama.jp)