2022年9月20日火曜日

流浪の民

カルメン・アマヤ
かつて、日本には「サンカ(山窩)」と呼ばれる流浪の民が存在しました。山から山へと移動し、小屋や天幕で暮らしたようです。蓑などを作り、里の人たちに売っていたとも言われます。フィクションまがいの書籍、小説などは存在するものの、その歴史も実態も、必ずしも十分には解明されていないようです。明治期以降、定住化、戸籍への組み込みが進み、昭和30年ころには、ほぼ消滅したようです。その起源については、戦国時代に土地を追われた流民説、天明の飢饉で生じた流民説、果ては縄文人の生き残り説などまであるようです。ただ、サンカが書き残した記録がないことから、実態は謎のままになっています。

西欧で2大流民と言われるのは、最も歴史の古い流民であるユダヤ人、そして現代でも流浪を続けるロマです。基本的に、ロマの人々は、馬車で移動しながら、鍛冶屋、旅芸人、占い師等を生業としてきました。ロマの歴史は、差別され、排除されてきた歴史でもあります。最も悲惨な歴史は、ユダヤ人とともに、ナチスによる絶滅政策の対象とされたことです。ナチスは、50万人のロマを虐殺したとされます。現在、欧州のロマは、1,000万人といわれ、東欧やスペインを中心に各国に散らばっています。定住化、あるいは同化が進んだとも言われますが、依然、漂流する者が多く、かつ伝統的な生業が成立しなくなったことで、経済的に困窮しているとされます。そのせいか、犯罪との関わりも増しているようです。

ユダヤ人は、独自の宗教や国家を持ち、民族的団結も強かったことから、その歴史は明らかになっています。一方、中世から欧州に進出したロマについては、多くの研究もされていますが、独自の記録を持っていなかったので、その歴史は十分に解明されていません。その起源については、インド西部のラジャスターンとする説が多いようです。10世紀頃、タタール人に追われて西への移動を開始したとされます。ロマのDNAは、インドでアーリア系に支配された先住民ドラヴィダ人に近いとされます。ロマがインドを出た理由は、タタール人の侵略ばかりではなく、インド・アーリア族の支配から逃れたかったのかも知れません。ロマが、欧州の記録に多く現れるようになったのは15世紀以降とされます。

多くの民族が交錯してきた欧州では、民族の同化や混血が進んできました。ユダヤ人の同化を拒む傾向は、独自の宗教で団結するユダヤ人自身が選択した道だったと言えます。それが、差別を生んできた理由でもあります。ロマは、もともとヒンドゥー教徒だったはずですが、各地の宗教に同化しています。にも関わらず、流浪を続けたのは、差別されたからなのか、社会的支配からの自由を自ら選択したからなのか、判然としません。ロマの人々の自由奔放で、情熱的といった特徴からして、体制へ組み込まれることを嫌ったとも思えます。ただ、差別され、疎外されてきた歴史が、そうした民族的特徴を形成したのかも知れません。恐らくは相互作用的だったのでしょうが。

日本では、ロマはジプシーと呼ばれ、フラメンコを生み出した民族という程度の認識が多いと思われます。ジプシーの語源は、エジプシャンです。一部のロマがエジプト出身をかたっていたことに由来します。ちなみに、ロマが多い東欧では、ツィンガニと呼ばれてきました。ギリシャ語の不可触民に由来する言葉だと言われます。呼称からして差別的だったわけです。音楽や芸能に優れるロマは、多くの才能を世に送り出してきました。最も有名なのは、チャーリー・チャップリンということになります。ヨハン・シュトラウス二世 やジャンゴ・ラインハルトといった音楽家、あるいはカルメン・アマヤはじめ、多くのフラメンコ・スターもいます。実は、第42代米国大統領ビル・クリントンも、ロマの血を引くことで知られています。(写真出典:pan-dora.co.jp)

マクア渓谷