2022年9月9日金曜日

監視社会

旧シュタージ本部
「政権は銃口から生まれる」と言ってのけたのは、毛沢東でした。いわゆる”革命”で誕生した政権が、最も恐れるものは”革命”です。革命政権は、独裁をしき、全体主義を徹底し、監視社会を作り上げ、革命の芽を摘んでいきます。監視社会の実現を担うのは、おおむね秘密警察の類いです。かつて、世界最強の監視社会と言われたのは東ドイツでした。国民の監視を担当したのはシュタージと呼ばれる国家保安省でした。ベルリンの壁崩壊時には、10万人の職員、60万人の非公式情報提供者が存在し、最盛期、その合計は190万人に達していたという説もあります。人口比では、1割を超え、悪名高きゲシュタポやKGBをはるかに凌いでいたようです。

 国民を監視する手法としては、半ば公然たる尾行、盗聴、盗撮、郵便の開封など、あらゆる事が行われていますが、主体を成したのは、非公式情報提供者による密告です。いわゆる相互監視体制です。なにせ10人に1人が非公式情報提供者だったわけで、近隣住民、職場の同僚、友人、果ては家族・夫婦・恋人まで含まれていました。シュタージに情報を提供しなければ、我が身が危ないわけですから、実に残酷な仕組みです。北朝鮮の金王朝が存続している理由の一つが、この相互監視体制だとも言われます。ドイツ統一後、シュタージは解散され、保管していた個人情報は公開されます。自分を告発していたのが、友人や家族だったことを知り、人間不信に陥った人も多かったようです。

アカデミー外国語映画賞を獲ったドイツ映画「善き人のためのソナタ」(2006)は、1984年の東ベルリンに暮らすシュタージの職員、劇作家、その恋人である女優に起きる悲劇を描いています。フィクションですが、当時のシュタージと東ドイツ社会を徹底的に研究して製作され、監視社会の残酷極まりない実態を浮き彫りにしていました。ただ、「”善き人のためのソナタ”を聞いた人間は、本当の悪人になれない」というセリフとともに、人間性への希望を残すストーリーになっていました。統一後のドイツでは、アンゲラ・メルケル元首相はじめ、東ドイツ出身者も大いに活躍しているのでしょうが、多くは、監視社会で受けた傷を抱えたまま、生きてきたのではないかと想像します。

北朝鮮、中国、ロシア等を見れば、監視社会は、決して過去の話ではありません。そして、ネット化が進む中、監視社会化は、全体主義国家に限った話ではなくなりつつあります。その対応策として、各国は、プライバシー保護の強化に取り組んでいます。世界をリードしているのが、2018年に適用が開始されたEU一般データ保護規則(GDPR)です。日本のプライバシー保護が、個人名の特定に限っているのに対して、GDPRは、購買履歴といった個人名を特定できない情報にも適用されます。欧州と取引のある企業にも適用されることから、日本企業も対応に大わらわでした。世界の潮流は、明らかにGDPRにあり、日本のプライバシー保護は、既にガラパゴス化していると言われます。

シュタージが、危険人物に対して行った”ツェルゼッツンク(弱体化)”という心理作戦があります。投獄・拷問・処刑ではなく、個人情報を周囲にばら撒く等して、対象者を精神的に追い詰め、社会生活を破綻させる手法です。より積極的には、ハニー・トラップによって離婚を画策する、あるいは手術の際に関係のない臓器を摘出することまで行われたようです。シュタージがたどり着いた最も近代的な大衆管理手法とも言われます。プーチン体制のロシアでも、その進化版が多用されているという説もあります。基本的には、情報操作の一種ですが、ネット社会では、容易に実行することが可能な手法であり、いわゆる”晒し”はじめ、常日頃、ネットで発生している問題とも言えます。日本でも、GDPRのような踏み込んだ対応策が求められていると思います。(写真出典:tripadvisor.jp)

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