2022年9月11日日曜日

見切り千両

井原西鶴
株式投資やFXなどと言えば、聞こえもいいのですが、かつて、株屋、あるいは相場師と言えば、結構、胡散臭い存在でした。相場師とは、大雑把に言えば、株式、不動産、穀物市場などで、現物を伴わない投機的な取引を行う人たちのことでした。一瞬にして巨万の富を得るロマンあふれる稼業とも言えますが、当然、そんな人はごく一握り。大層は、相場に大負けして、悲惨な人生を送ったものと想像できます。博打よりは合理的かも知れませんが、似たようなものなのでしょう。成功した相場師は有名になった人も多く、例えば、野村證券の野村徳七、山一の杉野喜精など、証券会社の創始者も多くいます。昔から、相場の世界には、独特の格言が存在し、今でも、通用するものが多いようです。

よく知られているものでは「相場は相場に聞け」、あるいは「天井三日 底百日」などがあります。なかでも「見切り千両」という言葉は好きな言葉です。売り時、買い時のタイミングを見極める事は難しいものです。ことに下げ相場の時など、もう少し我慢すれば、上げに転じるかも知れないと欲が働き、結果、大損することが多いものです。多少の損は覚悟で売った方が、大損を避けることになり、それは結果、千金にも値すると言うわけです。相場に限らず。ビジネス全般、あるいは社会生活でも意味のある格言だと思います。とかく欲に目がくらめば、ろくな結果にはならないものです。この言葉は、もともと上杉鷹山の格言として知られています。

全文は「働き一両 考え五両 知恵借り拾両 骨知り五十両 閃き百両 人知り三百両 歴史に学ぶ五百両 見切り千両 無欲万両」となります。鷹山らしい人生訓だと思います。しかし、鷹山に先立つこと100年前、井原西鶴の「日本永代蔵」に「働き一両 早起き五両 始末十両 儲け百両 見切り千両 無欲万両」という下りがあるようです。始末とは、船場言葉で倹約することを意味します。儲けとは、商売を営むことだと思えばいいのでしょう。井原西鶴は、江戸初期、寛永から元禄の頃に活躍した俳諧師にして浮世草子作家です。1682年に出版した「好色一代男」で、よく知られます。「好色一代男」は、単なる好色本というだけでなく、「源氏物語」のパロディでもあり、形骸化した古い価値観をあざ笑うカウンター・カルチャー的作品だとも言われます。

西鶴は、15歳で、既に俳諧師として名を成していたと言われます。発句の数を競う矢数俳諧では、一昼夜で23,500句という記録を打ち立てています。現代なら、間違いなくギネス記録です。大阪で活躍した西鶴は、商人ではありませんが、商人の栄枯衰勢を数多く目にしたはずです。西鶴のこの言葉を商人訓とするならば、無欲万両とは、石田梅岩の「実の商人は 先も立 我も立つことを思うなり」、あるいは大丸創業者の下村彦右衛門の「先義後利」に通じる言葉と理解できます。一方、人生訓とするならば、見切り千両、無欲万両と合わせ、人間の強欲を戒める言葉と捉えることができます。俳諧は、連歌から派生した、より遊戯性の高い、機知に富んだ短歌の形式です。発句と連句から成り、後に発句だけが独立して俳句になります。西鶴の言葉は、俳諧師らしい世の中の見方から生まれた言葉のように思えます。

つまり、儲け百両までの下りは、確かにお金の話ですが、実は、銭金の世界は、そんな程度のもので、人生の価値としては無欲に勝るものはない、ということなのでしょう。だとすれば、本家の西鶴の言葉より、鷹山の方が、より実学的で、より生臭いものに思えてきます。ちなみに、鷹山の名言とされる「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」の原典は、古代中国の「書経」だとされます。しかし、この言葉は、武田信玄の言葉を鷹山流にアレンジしたものだと言われます。オリジナルではありませんが、使えるものは使うという鷹山のプラグマティズムを感じさせる話です。(写真出典:ja.wikipedia.org)

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