2022年2月1日火曜日

門割

島津氏家紋
子供のいる高齢者が、子供と別居している割合は、年々高まり、2019年には50%に達したそうです。この数字は全国平均であり、当然、核家族化が進んだ都市部ではもっと高いものと想定されます。 ところが、都道府県別に見ると、最も高い県は鹿児島県となっていました。鹿児島は、ダントツ、不動の別居率一位を続けており、一時期は70%を越えていたようです。他県に増して、封建的な印象のある薩摩ゆえ、実に意外なデータです。その背景には、江戸期に確立した薩摩藩独自の「門割制度」なるものがありました。

日本の相続制度は、平安の頃までは嫡子相続が基本であり、嫡男以外は家を出されたものだそうです。鎌倉時代になると、能力のある者が惣領として家督を継ぎ、他の者には、分割された財産が渡されるようになります。家督とは、財産も含めた家のすべてを仕切る権利です。ただ、財産の細分化が進み、不満が生まれます。室町時代になると、能力のある者が、家督のすべてを相続することになります。武士団の維持という観点からは有効でしたが、家督を巡るお家騒動を生み出すことになります。江戸期に入ると、幕府は封建的な管理社会徹底のために家父長制を強化していきます。嫡子による家督相続が確立、徹底されました。明治憲法は、それを踏襲、制度化しました。

ただ、江戸期を通じて、鎖藩とも言える孤立政策をとった薩摩藩においては、多少、事情が異なります。薩摩藩の家臣は、人口の4割弱に及びました。琉球も含めた薩摩藩の石高は77万石ですが、稲作には不向きな土地が多く、実質35万石と言われます。すべての臣下を城下に住ませて、養うことは無理でした。藩内113カ所に外城(とじょう)を設置し、家臣たちは半農半士の生活を送りながら、地方行政を担います。それが鎖藩政策の防衛面をも担っていたわけです。農地の管理は、門割(かどわり)という制度によって行われます。5~6軒の家で門というグループを構成し、土地は門に割り当てられます。門が担当する土地は、時に変えられます。いわば転勤のようなものです。土壌の良し悪しによる不公平感を解消し、生産性を上げるためとされます。門割制度は、農民化した家臣と土地の結びつきを薄めて、戦闘集団としての士気を保つねらいがあったのではないかと思います。

これは、典型的な封建制とは異なる、特異な仕組みだったと言えるのではないでしょうか。結果的に、薩摩では、家督相続と土地という関係も切り離されていたわけです。それが、現在の同居率の低さに影響しているのだと思われます。また、薩摩藩では、郷中(ごじゅう)教育も有名です。会津藩の”什”と同様、武家の少年たちの教育制度です。いずれにしても、薩摩藩は、平和な江戸期にあって、武力の維持向上を第一義としていたわけです。会津藩も似ていますが、会津の大義は、幕府の北辺の守りでした。では、薩摩の大義は何だったのでしょうか。一言で言えば、自主独立だったのでしょう。薩摩島津家は、鎌倉時代初期から、処替えもなく、この地を治めてきました。江戸期300藩のなかでは最古参であり、新興の徳川など下に見ていたのでしょう。江戸幕府の支配下に入ったものの、徳川家とは対等以上であり、対立する関係にあるという認識が強かったのだと思います。

それが、薩摩藩の幕末における佐幕から倒幕に至る一連の動きにもつながったのでしょう。藩主と近臣たちの佐幕から、下級武士たちの倒幕へと流れは変わるわけですが、これはまさに薩摩藩の制度的な人材育成の賜物だったとも言えます。加えれば、江戸期、海外に開かれた4拠点の一つが薩摩藩であったことも影響しているのでしょう。薩摩藩の尚武の構えに、風雲急を告げる東アジア情勢という風が吹き、幕末という化学反応が引き起こされたと言えます。(写真出典:bakumatsu.org)

マクア渓谷