2022年2月25日金曜日

蘭画

日本人は、なぜ印象派が好きなのか、という議論があります。印象派の主な画題が、人物、静物、風景であり、分かりやすく、かつ日本画と共通する面が多く、親近感が持てたという説をよく聞きます。宗教や神話を画題にしたものは、相当に勉強しないと理解できなかったのだろうと思います。また、印象派の明るい光や鮮やかな色彩が新鮮で、文明開化の精神風土に合っていたのではないかという説もあります。さらに、印象派の画家たちが、ジャポネスムの影響下にあり、積極的に浮世絵の要素を取り入れていたことから、親和感が高かったという話もあります。これは、面白い話ですが、さすがに無理があります。

恐らく、明治維新と印象派の隆盛が、時期的に重なったことが一番大きな理由だろうと思います。要するに、多くの日本人が初めて目にした西洋画は、おおむね印象派であり、そのインパクトが最も大きく、深く心に残ったのだと思います。加えるに、黒田清輝はじめ、明治の西洋画壇をリードした留学組が、フランスで学んだのが印象派であり、より一層、西洋画=印象派となっていったのでしょう。脱亜入欧の時代、西洋画は時代の最先端であり、印象派こそ、坂の上の雲を追いかけた明治人の憧れでもあったのだと思われます。もっとも、西洋画自体は、江戸期、既に長崎の出島を通じて日本にもたらされています。いわゆる蘭画です。

蘭画は、18世紀後半、蘭学者平賀源内に始まるとされます。源内は、オランダ人に絵を習ったわけではなく、洋書の挿絵の模写などして、独学したようです。鉱山開発のために秋田藩に招かれたおり、源内は宿の屏風絵に目を止めます。作者は、藩士の小田野直武でした。源内は、直武に、陰影法、遠近法といった西洋の描写技法を直伝します。源内の弟子となった直武は、源内の”解体新書”の挿絵も描いています。直武は、日本の画材を用いて、西洋の技巧を活かした蘭画を描き、「秋田蘭画」を起こします。藩主も含め、幾人かの弟子もいましたが、直武の死後、秋田蘭画は消滅しています。その後、蘭画は、江戸の司馬江漢、白河藩の亜欧堂田善らに引き継がれていきます。

司馬江漢は、南蘋派の絵師であると同時に蘭学者でもありました。南蘋派は、18世紀前半、清から招かれて来日した沈南蘋の彩色画の画風を継ぎ、応挙、若冲、華山、蕪村らに影響を与えました。江漢は、源内とも交流があり、直武に師事したこともあったようです。日本で初めてエッチングを制作し、初めて油絵具を用いた人です。江漢は、漆工芸の技術を応用し、エゴマ油に顔料を混ぜて油絵具を作ったようです。一方、亜欧堂田善は、須賀川の商家の生まれですが、藩主に取り立てられ、長崎でエッチングを学びます。江漢に師事し、破門されたという説もあるようです。油絵は、南画の谷文晁に学んだようです。いずれも、18世紀末から19世紀初頭に活躍しています。

日本画に遠近法を用いた直武の風景画は、何の違和感もなく見ることができます。戦前までの、例えばカレンダー、あるいは銭湯の壁画といった商業ベースの風景画の基本になったようにも思います。一方、日本画的な構図を油絵具で描いた江漢や田善の風景画は、どこか描きかけの作品のような印象を受けます。絵具の問題かもしれませんが、重ねて色を出すという油絵具の特性を活かし切れていないように思います。異なる文化が交錯して、新しい文化ができます。しかし、それは一朝一夕で成るものでもないのでしょう。ただ、それ以上に、作風と画材との関係は、理由があって成熟してきたものだということを、あらためて思わされます。やはり、日本の洋画が形を成すのは、明治期のフランス留学組まで待つ必要があったのでしょう。(写真:小田野直武「絹本著色不忍池図」出展:bunka.nii.ac.jp)

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