四世山本東次郎 |
明治になると、後ろ盾を失った能楽は、厳しい時代を迎えます。なかでも狂言は、扱いが軽くなり、能の合間の食事やトイレの時間とされ、ひどい場合には、省略されたこともあったようです。辛い時代は、戦後すぐまで続きます。人間国宝の狂言師・四世山本東次郎は、そんな時代に修行した人です。山本東次朗は、猿楽の本流である大和猿楽を伝える大蔵流の名跡です。四世は、4歳の頃から厳しい修行を積みます。17歳のおり、狂言の将来を悲観した四世は、父であり師匠である三世に、「狂言をやめたい」と言ったことがあるそうです。山本家の養子であった三世は「わしは家の者ではない。家の者であるお前の将来を決めるわけにはいかない。墓へ行け」と言ったそうです。
四世は、言われたとおりに墓に行ったそうです。墓碑に刻まれた先祖の名前を見ているうちに、自然と涙が出てきて、やめるわけにはいかないと強く思ったそうです。芸能が、そのままの形で800年続いてきた背景の一つがここにあるのでしょう。国立能楽堂で、狂言に先だって行われたインタビューで、四世が話していたことです。また、三世の教えで、最も印象深いものは、という問いかけに、四世は「慢心」と答えていました。心に慢心が、わずかでも芽生えれば、芸は、そこで止まり、上達することはない、というわけです。芸道に、終わりというものはない、と言われます。世阿弥の「初心」に通じる言葉だと思います。85歳になるという四世の、キレのあるカマエとハコビ、ハリのある声には、80年に及ぶ、絶え間ない精進の凄さを感じます。
それにしても、狂言が、800年続いた理由は、サムライによる保護だけでは説明できません。おそらく、狂言が、日常で垣間見る人間のちょっとした欲や見栄などを、笑いにしてきたからなのだと思います。それは、誰しも心当たりのあることであり、またよく目にすることでもあります。室町時代であろうが、令和であろうが、それは変わりません。狂言は、普遍的とも言える人間の弱さを、高圧的に戒めるのではなく、それも人間らしさとして認め、笑い飛ばします。政治的でも、宗教的でも無く、庶民感覚の笑劇ゆえに、人々の心を掴んできたのだと思います。人間そのものがテーマなので、身分は関係ありません。武士であろうが、僧侶であろうが、金持ちであろうが、分け隔てなく笑いのネタにされます。庶民は、さぞかし痛快に思ったことだと思います。これも狂言の魅力の一つだと思います。
能のなかでも、狂言師が登場するものがあります。いわゆるアイです。中入りとなり、前シテが一度鏡の間へ退くと、土地のものとしてのアイが、前半の話をまとめ、後半への展開へとつなぐ語りを行います。アイを務める狂言師は、正座して語りますが、その際、腰をやや上げた状態を保つと聞きました。ふくらはぎと大腿部の間に、紙一枚が入るくらい、腰を浮かせるといいます。おそらく、声の張りと姿勢の美しさを保つために行うのだろうと思います。相当の修練を積まなければ、できる技とは思えません。(写真出典:story.nakagawa-masashichi.jp)