1940年、ナチス・ドイツの侵攻に対して、フランス政府は、早々に降伏します。悲惨を極めた第一次大戦の記憶が、そうさせたと言われます。結果、パリは戦火を逃れますが、ナチスの支配下に入ります。フランス北部はナチスが占領し、南部には、ナチスに従順なヴィシー政権が樹立されます。当初、レジスタンスの活動は、各地で散発的に行われる程度でした。42年頃には、グループが構成され始めますが、連携はありませんでした。当時は、まだチラシ配り、サボタージュ、墜落した連合国側パイロットの救出等が主な活動でした。43年になると、シャルル・ド・ゴール将軍が英国で立ち上げた自由フランス軍を後ろ盾に、ジャン・ムーランが、レジスタンス組織を統合します。
フランス人のドイツへの強制労働が開始されると、レジスタンスへの参加者も増え、武力襲撃も行われます。ただし、レジスタンスは武器不足に悩まされ、英国からの供給も受けられませんでした。ナチス側も黙っていません。ゲシュタポによる徹底的な摘発と弾圧が行われます。またヴィシー政権は、民兵団を組織し、レジスタンスの一掃を図ります。ゲシュタポに逮捕されると、拷問のうえ銃殺されます。また、本人や家族の身の安全と引き換えに、仲間の情報を吐かせる工作も行われます。裏切りによって、多くのレジスタンスが逮捕されています。映画でも言及される”24時間ルール”は、よく知られています。逮捕されたら、24時間は拷問に耐えろ、という掟です。その間に、仲間たちは、地下に潜るわけです。
ヨーロッパの戦況を大きく変えたノルマンディー上陸作戦は、敵の配置に関する正確な情報、電線・電話線の切断といったレジスタンスの活躍無くして成功しなかったとも言われます。劣勢となったヒトラーは、パリの死守、それができなければパリの破壊を命じます。パリ市民たちは、連合軍上陸に後押しされるように武器を取り、ナチスへの攻撃を始めます。数では圧倒するレジスタンス側でしたが、如何せん武器・弾薬が足りません。しかし、頼みとする連合軍の進軍コースからパリは外れていました。ド・ゴールの必死の要請に折れたアイゼンハワー司令官は、自由フランス軍と連合軍の一部をパリへ向かわせます。パリ解放は、レジスタンスと連合軍によってなされたわけです。フランス革命から続く伝統を感じさせます。
フランスのレジスタンス運動には、市民蜂起の伝統の他にも特徴的なことがあります。ロンドンが後方司令所となり組織的な抵抗運動が展開されたこと、そして女性の参加者が多かったことです。女性が多かったのは、100万人と言われるフランス兵がナチスの捕虜になり、数十万人が強制的にドイツで労働させられ、国内に男性が少なくなったためだと言われます。レジスタンスの組織は、安全のために細かく分断されていますが、細胞のリーダーには女性も多かったようです。また、統括的な地位についた女性リーダーも存在します。彼女たちの活躍が、戦後フランスにおける女性の地位向上に大きな貢献をしたことは言うまでもありません。(写真出典:hubpages.com)