韓信 |
当初、趙軍は、城塞に立てこもっていました。攻城戦に勝利するためには、城内の数倍の兵力が必要とされます。韓信の兵は、数倍どころか、数分の一です。城を攻めると見せかけた韓信軍は、反撃を受けて退散します。趙軍は、ここぞとばかりに、兵を繰り出し、韓信軍を追います。韓信は、あらかじめ予定していた川縁に兵を展開します。背水の陣です。ただし、川縁に至るには、狭隘地を抜ける必要がありました。趙軍は、一度に韓信軍に襲いかかることは出来ず、3万人対20万人の戦いは、実質3万対数万という互角の戦いに持ち込まれました。状況は、紀元前5世紀のペルシア戦争におけるテルモピュライの戦いに似ています。狭隘地で、スパルタのレオニダス率いる300名が、数十万といわれるペルシャ軍を防いだ戦いです。
さらに、韓信は、別働隊を、密かに城の後背地に送り込んでありました。ほとんどの趙軍が、韓信軍を追って城を出たところを見計らって、城に攻め入り、これを奪取します。一方、韓信軍を攻めあぐねた趙軍は、一旦、城に戻り、態勢を整えようとします。ところが、城は敵の手に落ちていました。結果、挟み撃ちの状態に陥った趙軍は総崩れとなり、潰走します。3万の韓信軍が20万の趙軍を打ち破ったわけです。背水の陣は、単に、兵たちの火事場の馬鹿力を引き出す精神論的な作戦だったわけではありません。敵を城からおびき出して戦う、狭隘地を使って敵の兵力を分断する、背水の陣を陽動作戦として城を奪い挟み撃ちにする、という三つの作戦が統合された戦術の一部でした。
実は、韓信は、趙軍にスパイを送り込み、趙軍の動きを逐一把握していたとされます。つまり、情報戦でもあったわけです。趙軍を率いる李左車は、城から別働隊を出し、狭隘地を使って韓信軍を川縁に追い詰める作戦を進言しますが、宰相に拒絶されます。これを知った韓信は、勝利を確信したと言われます。両賢将とも、狭隘地を使う作戦を考えていたわけです。韓信は、捕虜となった李左車を上席に置き、来るべき燕との戦いに助言を求めます。李左車は、自らを恥じて「敗戦の将、兵を語らず」という名言を残します。韓信は、趙軍が敗れたのは、李左車の策を宰相が拒んだためであり、あなたの失敗ではないと説き、助言を求めます。李左車は「智者にも千慮に必ず一失有り、愚者にも千慮に必ず一得有り」と述べ、愚者の策ですとへりくだったうえで助言をしています。「千慮の一失」、および「愚者にも一得」という故事成語の由来です。
韓信と言えば、もう一つ忘れてはならない故事成語があります。「韓信の股くぐり」です。貧しい家に生まれた韓信ですが、いつも剣だけは離しませんでした。ある日、韓信は、町のごろつきから、剣を抜け、抜けないなら股をくぐれ、と馬鹿にされます。韓信は、あえて股をくぐります。後に大将軍となった韓信は、ごろつきを呼び寄せ、取り立ててやります。あの時は、剣を抜いても意味がないので我慢した、それが今の自分を作った、と語ったそうです。大志を抱く者は、眼前の小さな恥辱など耐えなければならない、というわけです。ちなみに、漢の高祖劉邦が、天下統一を成したげたのは、韓信の活躍によるところが大きかったわけですが、その有能さや自信が徒となり、謀殺されています。(写真出典:sekainorekisi.com)