合羽橋 |
とは言え、世界中の大きな街には、必ず同業者街が存在するものです。台北も例外ではありません。有名なところでは、迪化街(ディーホアジエ)があります。漢方と乾物の問屋街であり、台北で最も古い商店街と言われます。東京なら、電気街の秋葉原、厨房用品の合羽橋、人形の浅草橋はじめ多くの同業者街があり、あるいは、茅場町や馬喰町など、かつて存在し、地名に残る同業者街も少なくありません。また、日本各地には、寺町、鍛治町、紺屋町など、同業者街に由来する地名が残っています。映画館街とは異なり、同業者街なら、邱永漢も否定しなかったのではないかと思います。それにしても、なぜ同業者街は出来たのでしょうか。
ライバルがいない方が、商売にとっては良さそうなものです。商圏が小さければ、そのとおりでしょうが、大きな商圏を持つ都市では、特化した町の方が、競合以上に集客という面で有利だったのでしょう。また、小売業よりも、業者を顧客とする問屋の方が、同業者街には適しています。そもそもは、中世に、世界中で発生したギルドや座といった商工業者の団体に起源があるのでしょう。ないしは、その特徴の一部を受け継いでいるのでしょう。都市の発展とともに誕生したギルドや座は、発生経緯の違いはあるにしても、為政者と結びついて、特権を得ていたことが大きな特徴です。
ギルドや座は、経済の自由化とともに、消えていきました。特権が無くなったとは言え、同業者が団結することで、仕入値や販売価格の調整、商売上の相互扶助といったメリットは残ります。同業者街は、それらを実現しやすい形態だったと言えます。また、為政者にとっても、同業者街の存在は、管理のしやすさにつながります。同業者街は、立地条件から自然発生的に誕生したものもありますが、大名が城下町を建設する際、配置したものが多く存在します。なお、寺町などは、城の防御上の観点から配置される場合がほとんどです。寺は、兵を配置しやすく、建屋や塀は防御上有効です。面白いことに、寺町はあっても、神社町は存在しません。恐らく、神社は古代から続くものが多く、しかも立地とは切り離せない場合が大半を占めるからなのでしょう。
江戸期に存在した同業者街の多くは、既に失われていますが、戦後、新たに生まれた同業者街もあります。秋葉原の電気街が典型です。また、各地に闇市から発展した街もあります。これは、厳密には同業者街とは異なるかも知れません。ただ、御徒町のアメヤ横町などは同業者街と言ってもいいのでしょう。江戸期には、騎乗しない下級武士”御徒”が多く住んでいた町ですが、戦後、闇市のメッカとなります。アメ横の名前の由来は、戦後すぐ、砂糖が貴重だった時代に芋飴を売る店が多くあったら”飴屋横町”、あるいは進駐軍の払下や横流しの物資が多く売られていたことから”アメリカ横町”と呼ばれたという二つの説があります。(写真出典:seven-press.com)