北前船 |
大阪は、ヤマト王権以降、都に近い良港として栄えてきました。瀬戸内の内海航路は、遠く半島や大陸へも続きます。江戸期には西回り航路が開発され、北前船が行き交いました。当時の航海術のレベルからすれば、江戸は難所の多い港だったこともあり、各藩の米や特産品は大阪に運び込まれました。運河沿いには、各藩の蔵屋敷が建ち並んでいたといいます。食野家は、100隻の船を所有し、全国諸藩を相手に商売していました。各藩との結びつきから、大名貸し、つまり諸藩への貸し付けも行うようになり、巨万の富を蓄えていきます。鴻池家は、造り酒屋でしたが、やはり廻船業、金融業へと進出して財を成しています。建前上、江戸期の経済は米本位の自給経済でしたが、安定的な貨幣の普及、物流の発達とともに、貨幣経済へと進んでいったわけです。
明治になると、大阪の大富豪たちは、突然、影が薄くなります。明治政府との太いパイプを背景に台頭する財閥に、主役の座を奪われた形です。富国強兵政策のもと、急激に進められた工業化に乗れなかったわけです。また、廃藩置県によって、各藩への貸し付けの多くが反故にされたため、鉱工業等に進出するための資本力も失っていました。酒造りの鴻池、銅山の住友、呉服の三井など、本業を継続しつつ、金融も行っていた豪商は別として、食野家のように、金融に特化していった商家は、この時点で没落していきます。さらに、追い打ちをかけたのが、戦後の農地改革でした。大阪の富豪たちの多くが、消えていきました。豪華を極めたという食野家の本宅は跡形もなく、いろは四十八蔵と呼ばれた海岸の倉庫もわずかな痕跡を残すばかりです。
大阪は、天下を治めるために最も適した地だという説があります。陸海の交通の要所であり、東北を除けば、ほぼ日本の中心に位置し、上町台地は天然の要塞でもあります。最初に、それに気づいたのは真宗本願寺宗主の蓮如だと言われます。蓮如が建立した石山本願寺は、ほぼ大阪城の位置にあったようです。織田信長は、石山本願寺の恐ろしさを見抜き、徹底的に攻撃し、破壊しました。実際に大阪で天下を治めたのは豊臣秀吉でしたが、短命に終わります。徳川家康は、公家の介入を嫌って、江戸に幕府を建てますが、要害の地大阪には新たな城を建てました。天下を治めるに最適がゆえに、大阪の為政者は短期間で変わっていき、結果、商人たちには、自主独立の気風が育っていきました。この独立性の高い、ある意味、反中央的な町人文化が、大阪を天下の台所にもしましたが、一方で、明治期の財閥化の妨げになったのかも知れません。
勤めていた会社が不祥事を起こした際、大阪でもお客さまとの懇談会を開きました。あるお客さまから「お前んとこの社長とお前は、給料、なんぼもらってんのや、言ってみい」と言われました。個人情報ゆえ、お答えできません、と木で鼻をくくった答えもできます。私は、プライバシー保護の観点から個別報酬は開示できないものの、役員報酬の総額は決算書に記載しています、報酬の算定方式はこのようになっています、と丁寧に説明しました。厳しい追加質問を想定していましたが、お客さまからは「さよか」との一言だけでした。大阪の人は、えらそうにしている人が大嫌いです。権力や権威を振りかざされると、ほぼ自動的に反発します。自主独立の町人気風が育んだ文化は、いまだに健在だと思った次第です。(写真出典:nippon.zaidan.info)