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石橋正二郎 |
ブリヂストン創業者の石橋正二郎は、1889年、久留米の仕立屋に生まれます。家業を継いだ正二郎は、足袋製造一本に絞り、機械化、規格化、給与制等の近代化を進め、成功します。1921年には、兄徳次郎が開発した地下足袋で大成功し、進出した靴製造でも日本一となります。1931年、黎明期にあった自動車のタイヤ製造へと事業を拡大しました。先見の明に優れた近代日本を代表する経営者です。正二郎は、小学校時代の恩師である坂本繁二郎の依頼を受け、夭折した天才青木繁の絵画から美術収集を始めます。青木、坂本、そして藤島武二のコレクションが、石橋美術館のメインとなっています。
坂本、青木は、共に久留米の出身です。加えて古賀春江、高野野十郎、版画の吉田博等もおり、何故か、明治期の久留米は、洋画を中心に革新的な画家を多く輩出しています。正二郎は、時代が違うので、後に収集はしますが、彼らを支援したわけではありません。その正二郎や東芝創業者の田中久重も加えれば、明治期の久留米は、革新的な人を多く輩出した土地柄とも言えます。久留米市によれば「筑後川と筑後平野の豊かな自然の恵み」が彼らを生んだ、ということになります。そのとおりでしょうが、彼らの革新性の説明にはなっていません。
実は、幕末における久留米藩の状況が、少なからず影響しているのではないかと思います。家康の養女を妻に迎えた福知山藩主・有馬豊は、大阪の陣での戦功が認められ、1620年、久留米藩21万石の城主になります。城や城下の整備、筑後川の治水、筑後平野の灌漑整備等を精力的に行いますが、当面の財政難も招きます。倹約に努めた結果、江戸中期には財政も再建されますが、以降、和算の大数学者、相撲好き、文化好きといった藩主が、藩政を顧みずに趣味に没頭し、政治は乱れます。そして、幕末に至り、複雑な家臣団の構成を背景にお家騒動が起こり、それに尊王・佐幕の争いが加わり、陰謀・暗殺・疑獄といった混乱が続きます。
開明派が主導権を握ると、日本有数の海軍も創設されます。戊辰戦争では新政府側について戦っていますが、明治3年には、新政府転覆をはかる二卿事件に関与し、明治政府による占領も経験します。時代の変わり目の混乱が、あたかも一藩の中に凝縮されたがごとき大騒動です。新しい社会が生まれる際の大混乱は、新しい文化・芸術の揺りかごでもあります。久留米が開明的な人材を多数輩出し得た理由が、ここにあるのだと思います。ちなみに、15代有馬家当主は、プロ野球の球団オーナーや中央競馬会理事長を務め、G1有馬記念にその名を残します。有馬家の家風を感じさせます。(写真出典:ishibashi-foundation.or.jp)