2021年2月24日水曜日

御柱祭

長野県の諏訪大社の「式年造営御柱大祭」、いわゆる御柱祭は、7年に一度、寅年と申年に行われます。人が乗った大木を縦に急斜面から落とす「木落し」は、極めて危険で、毎回、ケガ人や、時に死者まで出すという勇壮な祭りです。木落しは、毎回、全国版TVニュースで放送されるので、とりわけ有名ですが、祭り全体は、4月の山出しに始まり、里曳きを経て、6月、境内の四隅に御柱を建てる建御柱まで続く長丁場の祭りです。日本で最も危険な祭りであると同時に、その起源も古すぎて判然としない日本で最も不思議な祭りでもあります。

諏訪大社の御柱が何を意味するのかについては、諸説あるようです。天地を支える象徴、巨大神殿の名残、結界を示すもの、柱の持つ霊力への信仰等々です。柱は、端と端で、天と地を結ぶもの、としてハシ・ラと呼ぶとも聞きます。神々は柱を目指して降臨すると信じられていたようです。柱に対する信仰は、アジア各地にも見られるようですが、日本では特に北陸から東北にかけて多いようです。青森県の三内丸山遺跡にも、巨大な柱を立てたと思われる6つの穴が並んでいます。柱に対する信仰は、縄文期の信仰だと言われています。

諏訪は斧や矢じりに使う黒曜石の産地であり、全国の縄文遺跡から諏訪の黒曜石が見つかっています。また、諏訪には縄文遺跡が多く点在しています。諏訪は、縄文期における一大拠点だったのでしょう。一方、弥生人の神話である古事記にも、諏訪は登場します。高間原の天照大御神の使いである建御雷神が、葦原中国の大国主神に国譲りを迫った際、大国主神の次男である建御名方神が国譲りに反対し、建御雷神に戦いを挑むも負け、科野(信濃)国の州羽(諏訪)の海まで逃れます。ここに留まるので許してくれと懇願し、国譲りに同意します。これが諏訪大社の縁起とも言われます。

弥生人は、出雲から北陸経由で、諏訪に到達し、稲作を始めたということなのでしょう。稲作には土地と人手が必要で、高い生産性は余剰米を生みます。弥生人は、組織化され、土地・労働力・余剰米に関する明確な所有概念を持ちます。所有概念は、争いや戦さを生みます。所有概念も薄く、争いもなく、組織化もされていない縄文人は、武装した弥生人の前では無力だったはずです。諏訪では、小高い山裾に縄文人の竪穴式住居があり、水辺に弥生人の水田が広がり、住みわけがされていたようです。争いもあったはずですが、やがて共存、同化の道をたどったのでしょう。弥生人の神社を、縄文の御柱が守るように起立する姿は、共存の象徴として成立し、今に残ったように思えます。

だとすれば、湖の周囲に特有な地形こそが、奇跡的に、生きた形で縄文文化の一部を残したのだと言えます。木落しの映像を見れば、御柱に乗っているだけでなく、両脇を一緒に駆け降りている多数の氏子たちがいます。ほとんど意味は無さそうですが、一緒に急坂を下りたくなる気持ちは、とてもよく分かります。その統制の無い熱狂は、弥生文化にはほぼ無いものだと思います。縄文パワーとでも呼びたくなります。(写真出典:shibashota.worldpress.com)

マクア渓谷