2021年2月3日水曜日

サド裁判

高校から大学にかけて、稀代のディレッタント澁澤龍彦の大ファンでした。社会人になり、仕事に忙殺されるようになると、次第に澁澤の本からは遠ざかっていきました。私が変わったのか 、澁澤が変わったのか、あるいは時代が変わったのか。2019年の暮れに、白水社から礒崎純一著「龍彦親王航海記 澁澤龍彦伝」が出版されました。500ページに及ぶ年代記は、編集者として澁澤と親交があり、澁澤を調べつくした著者ならではの宇宙を構成しています。書斎人であることを全うした澁澤龍彦のすべてを、余すところなく伝えているばかりか、60年代文化の一側面と、その終わりを見事に伝える本でもあります。

澁澤の名を世間に知らしめたのは、1961年に起こったサド裁判でした。1797年にサド侯爵が出版した「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」を澁澤が翻訳した「悪徳の栄え」が猥褻物頒布等の罪に当たるとして起訴された事件です。文学界は、これに猛反発し、そうそうたる面々が、応援の論陣を張ります。当の澁澤は、三島由紀夫に当てた手紙で「勝敗は問題とせず、一つのお祭り騒ぎとして、なるべくおもしろくやろうと考えています」と語っています。澁澤は、裁判にたびたび遅刻し、無断欠席までしています。政治も含め、世俗とは一線を画して生きた書斎人らしい姿勢です。

裁判は、一審勝訴、二審逆転敗訴、1969年に至り、最高裁が7対5、意見1をもって上告を棄却、罰金刑が確定しました。いわゆる猥褻裁判は多数ありますが、重要なものとして1951年起訴、1957年に結審した「チャタレー裁判」が挙げられます。D.H.ローレンスの「チャタレー夫人の恋人」を翻訳した伊藤整と出版元が訴えられました。最高裁は、猥褻の三要素として、徒らに性欲を興奮又は刺戟し、通常人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する、を定義し、公共の福祉が表現の自由に勝るとしました。そもそも定義が不明確な猥褻を法廷が裁けるのか、という疑問があったわけですが、この最高裁判決は、猥褻裁判の枠組みをはじめて明らかにし、以降、各国でも活用されたようです。

猥褻裁判は、表現の自由、知る権利を巡って争われますが、違和感を感じます。公共の利益が個人の自由を制約することがあり得るのは理解します。それが社会規範であり、法なのでしょう。しかし、社会規範や法として明文化できないものは、社会的コンセンサスを形成することが困難なものであり、個人の選択に委ねられるべきだと思います。それが憲法の保障する個人の自由だと考えます。個人に選択の余地がない場合、例えば東京駅のコンコースに、多くの人が不快と思う巨大な図画が掲げられれば、批判を集め、撤去されるでしょう。猥褻を法に定義し、裁くことに無理がある以上、サド裁判に対する澁澤の態度は、至極まともなものだったと思います。もちろん、現実の法手続きは別ですが。

澁澤の没後、スキゾ・キッズ浅田彰は「まだタテマエがしっかりしていたころ、それに背を向ければ「異端の文学者」を気取ることができた。まだ洋書を手に入れることが難しかったから、あの程度で素人を幻惑できた」と澁澤をこき下ろしているようです。浅薄な見方ですが、まったくその通りだとも思います。アンシャン・レジームに対して、学生運動が、ヒッピーが抵抗を試みていた時代、澁澤は、人間をダークサイドから深堀するという、まったく異なるアプローチで、モラルなるものへ抵抗していたのだと思います。澁澤ファンは、澁澤個人ではなく、澁澤が開いてくれた秘密の扉の向こうで見たものから、人間を、そして世界を学んだのだと思います。(写真出典:unangepasse21.com)

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