当時、白人チャンピオンは、黒人とのタイトル・マッチを拒否できる”カラー・ライン”という制度がありました。強そうな黒人挑戦者をカラー・ラインで避けることができたわけです。黒人選手たちは、独自のチャンピオン・シップを創設しますが、お金にはなりません。黒人チャンピオンになったジャック・ジョンソンは、ヘヴィー級チャンピオンであったトミー・バーンズを挑発し続け、1908年、ついにシドニーでのタイトル戦にこぎつけます。結果は、14ラウンドTKOでジャック・ジョンソンの勝利、初めて黒人の世界チャンピオンが誕生しました。記録映像には、ジャック・ジョンソンの不敵な笑顔、そして倒れそうになったバーンズを抱え起こして殴るシーンも写っています。試合は、警官がリングに入り、中断され、TKOと判定されます。撮影も止められます。
優位性を否定された白人たちは激怒し、妨害や脅迫、果ては殺人予告まで行われます。ジャック・ジョンソンを叩きのめす”グレート・ホワイト・ホープ(白人期待の星)”として多くの白人ボクサーが送り込まれますが、ことごとくジャック・ジョンソンが勝ちます。究極のグレート・ホワイト・ホープとして、無敗のまま引退したジェイムス・ジェフリーズが担ぎ出され、1910年、”世紀の決戦”と銘打ってネヴァダ州リノでタイトル戦が行われます。”黒人を殺せ!”の大合唱のなか行われた試合は、15Rに2度ダウンしたジェフリーズのセコンドが、KO負けを回避するためにタオルを入れ、ジャック・ジョンソンのTKO勝ちとなります。ジャック・ジョンソン勝利に沸き立った黒人たちは、全米各地で街に繰り出し、勝利を祝いました。一部では暴動に発展し、30人ほどの死者まで出ます。この事態に白人たちは怯えます。
ジャック・ジョンソンは、何も恐れず、黒人でも白人でもなく、普通の人間として行動します。シカゴにナイト・クラブを開き、高級車を乗り回し、カー・レースにも参戦しています。また、常に白人女性をはべらせ、生涯3度の結婚相手も、すべて白人女性でした。白人たちの怒りは頂点に達し、白人女性を不適切な目的で州外に連れ出すことを禁じたマン法違反で、ジョンソンを逮捕します。奴隷的な売春から白人女性を守る法律の悪用でした。ジョンソンは、欧州へと逃亡します。欧州で試合を続けたものの、1915年、灼熱のハバナで、素人同然の巨人ジェス・ウィラードに、26RでKO負け、タイトルを失います。不自然さも残るこの試合は、八百長だったと言われています。ジョンソンは、負けと引き換えにアメリカに戻してやると言われていたようです。
1920年、ジャック・ジョンソンは、マン法違反に関し、自首して収監されます。明らかに冤罪であったマン法違反に関しては、2018年に至り、トランプ大統領により死後恩赦が与えられています。ジャック・ジョンソンは、差別と闘いましたが、抗議行動を扇動したわけでも、暴力に訴えたわけでもありません。その生き方において、白人たちを挑発し続けたのだと思います。彼の正当な後継者は、モハメッド・アリであり、マイルス・デイビスでもあると考えます。マイルスは、ドキュメンタリー映画「ジャック・ジョンソン」(1970)の音楽を担当しました。その同名アルバムの最後に、ブロック・ピータース演じるジャック・ジョンソンの言葉が流れます。実にジャック・ジョンソンらしい言葉です。"I'm Jack Johnson. Heavyweight champion of the world. I'm black. They never let me forget it. I'm black all right! I'll never let them forget it!" (写真出典:medium.com)