2021年2月26日金曜日

水兵服

米国海軍水兵服
いわゆるセーラー服は、19世紀に英国海軍が水兵の制服として採用してから、現在に至るまで多くの海軍で採用されています。また、子供服としても世界的に流行し、日本では女子学生の制服としても定番になっています。実に不思議なのは、その大きな襟です。大きな襟が採用された理由は定かではなく、諸説あります。よく聞くのは、強風の際、襟を立てれば、号令が聞こえやすくなるというものです。確かに、その効果はありそうですが、ピンときません。セーター服の、三角に開いた胸元、丈の短さは、水兵が海に落ちた際、泳ぎやすくデザインされたと聞きます。海中で浮かびやすい大きな襟は、落水した水兵を見つけやすく、引っ張りやすいからではないかと思います。

かつて英国海軍の水兵には制服がありませんでした。艦長が自艦に限って制服を揃えることはあり、1845年、ブレザー号の艦長が揃えた制服が評判となり、ブレザーの語源ともなります。1853年には、ハーレクイン号が艦名にちなんだ道化服を水兵に着せたことが問題となり、1857年、海軍は水兵の制服を制定します。その際採用されたデザインが、現在まで続くセーラー服でした。即座に、各国の海軍も追随しました。機能性の高さが評価されたということなのでしょう。ヴィクトリア女王は、セーラー服が気に入り、子供たちに着せます。これが皇室好きの英国で流行し、20世紀前後には、世界的流行になったそうです。

日本でも、1872年の海軍創設時から制服として採用しています。また、女学生の制服としては、1920年、京都の平安女学院が、初めてワンピース型のセーラー服を制服として採用します。翌21年には、名古屋の金城学院、横浜のフェリス女学院、福岡の福岡女学院が、続けてセパレート・タイプを制服に定めました。この四校すべてが、いわゆるミッション系であり、当時の最先端だったのでしょう。それまで日本の女学生は、着物・袴を着用しており、体育教育の開始とともに、より動きやすい洋服へと変わったということのようです。一方、男子の詰襟の学生服は、1873年頃、工部省工学寮や札幌農学校で採用されたのが始まりだったようです。

戦前の日本で、学生服が、男女ともにミリタリー調であったことは、なかなか興味深いものがあります。戦後、民主主義教育が徹底され、脱軍国主義が強調されるなか、詰襟とセーラー服は、排除されるどころか、全国的に学生服のスタンダードになります。誠に不思議です。うがった見方をすれば、戦後の民主主義教育が、いかに底の浅いものだったか、とも言えそうです。実際のところは、戦前、ある意味、特権階級の象徴でもあった詰襟とセーラー服は庶民のあこがれの的であり、それが、敗戦とともに民主化され、広まったということなのでしょう。化繊の普及もあり、安価に手に入れられるようになったということもあるのでしょう。

詰襟やセーラー服は、80年代から衰退傾向に入り、ブレザー化が進んできたそうです。ようよう脱ミリタリー化したわけです。一方、60年代には、ミリタリー・ルックが流行します。反戦的な意味をもった流行だったように思います。流行のきっかけは、1959年のフィデル・カストロのNY訪問だったと言います。その年、バティスタ政権を倒し、革命政府を樹立したばかりのカストロは、国連総会出席のためにNYにやってきます。そのいでたちは、ジャングルで戦っていた頃そのままに、ひげ面に戦闘服、口には葉巻をくわえていました。米国の若い文化人たちの間でカストロ人気が高まり、なかには服装まで真似るものが出てきます。彼らは、ラジカル・シックと呼ばれ、その後のミリタリー・ルックへとつながったそうです。(写真出典:usatoday.com)

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