2021年2月22日月曜日

佐渡の能舞台

大膳神社能楽堂
新潟港から佐渡の両津港までは、約70km、ジェットフォイルで約1時間、フェリーならその倍以上の時間がかかります。日本最大の島は、香川県の半分ほどの広さがあります。平成の大合併で、現在は一島一市になっていますが、合併直前は10の市町村がありました。豊かな自然に恵まれた島です。佐渡金山、佐渡おけさ、鬼太鼓、朱鷺の生息地等に加え、能楽の島としても知られます。佐渡の方言は、新潟市等とは異なり、関西弁に近いものがあります。平安期以降、佐渡は流刑地として、上皇も含め、多くの貴族、僧侶、文化人等が流されました。また、北前船の寄港地として栄えたことも、言葉に影響を残しているのだと聞きます。

佐渡の歴史は古く、律令体制以前の国造の記録もあります。6世紀には、オホーツク文化人と思われる「粛慎(みしはせ)」という民族が来着し、7世紀、越の国の国守が討伐したという記録もあります。722年、穂積朝臣老が佐渡へ流されます。これが流刑地佐渡の始まりだったようです。以降、多くの流刑者が佐渡に流されますが、1271年には日蓮が流刑となります。佐渡は、今も日蓮宗の多い島です。そして1434年、世阿弥が佐渡流刑となります。室町幕府3代将軍足利義満に庇護された世阿弥でしたが、6代将軍義教が音阿弥を贔屓にしたため、世阿弥は弾圧され、ついには佐渡へ流刑となります。世阿弥が神社に能を奉納したという記録もあれば、佐渡に持参したという能面も伝わります。ただ、佐渡の能楽は、世阿弥が広めたものではありません。

佐渡の能楽は、世阿弥流刑から150年以上たった江戸期になって広まります。1601年、佐渡金山が発見されると、江戸幕府は、佐渡を天領とし、奉行所を置きます。初代奉行として赴任したのが大久保長安でした。長安は能楽師の家に生まれた人でした。当時、能楽師は、武家と同等の扱いでしたから、こういう人事もあったのでしょう。長安は、シテ方、囃子方、狂言方を連れて赴任し、佐渡各地の神社に、能楽を奉納しました。同時に、庶民にも能楽の門戸を開き、広めていったようです。いわば金山発見が、能楽の島を作ったわけです。そして、山の幸、海の幸に加え、北前船の寄港地という豊かさがあればこそ、佐渡に能楽は広まったのでしょう。

佐渡には、30を超える能楽堂が残り、うち9つでは、今も市井の人々による能楽が演じられています。最盛期には200を超える能楽堂があったようです。佐渡を旅した明治期の詩人・大町桂月は「鶯や十戸の村の能舞台」と詠んでいます。そんな小さな集落にまで能舞台があったというのは、とりもなおさず神社があれば能舞台があったということなのでしょう。山形の黒川能、福岡の新開能等も、農民能として知られます。いずれも元々は神官による神事であり、継承者に困り、農民が引き継いだという経緯があります。佐渡も神事という枠組みがあったからこそ広まり、継続したと言えます。ただ、当初から農民の教養・娯楽として始まり、継承されてきた能楽など、佐渡にしかないのではないでしょうか。

佐渡の能楽堂は、ほとんど屋外にあり、薪能として上演されます。都内の能楽堂とは異なり、くつろいだ雰囲気があり、飲食も写真撮影も自由だと聞きました。あくまでも村の行事として続いているということなのでしょう。ひょっとすると、世阿弥の頃の能楽の姿、あるいは世阿弥が目指した愛される能楽の姿が、奇跡的に、佐渡には残っているのかもしれません。(写真出典:visitsado.com)

マクア渓谷