2023年9月24日日曜日

相撲節会

相撲節会図
相撲、レスリングの類いは、太古の昔から、世界各地で行われていたのでしょう。日本の相撲は、豊作祈願や豊凶占い、あるいは悪霊封じとして、古くから行われていた神事だったようです。古墳時代の埴輪には力士像がありますから、少なくとも1,600年くらい前には定着していたことになります。一般的に相撲の起源とされるのは、日本書紀に記載される野見宿禰と当麻蹴速との対戦です。大和の当麻邑の蹴速は、強力を誇り、生死をかけて勝負する者を探していました。これを聞きつけた垂仁天皇は、出雲国で勇士と評判の野見宿禰を召し出し、対戦させます。両者、激しく戦い、宿禰に腰の骨を折られた蹴速は命を落とします。宿禰は、蹴速が所有していた土地を与えられ、永らく垂仁天皇の側に仕えたとされます。

第11代天皇とされる垂仁天皇は、実在するとすれば、3世紀後半から4世紀前半の大王だったと推定されています。記紀等によれば、垂仁天皇は、娘の倭姫命に天照大神を祀る地を探すように命じます。諸国を巡った倭姫命は、神託を受けて伊勢神宮を創建します。また、垂仁天皇は、天皇の直轄地である屯倉を最初に作ったともされます。ヤマト王権草創期を担った大王なのでしょうが、この時点では、まだ部族連合の頂点に立っていなかったと思われますが、宿禰を出雲国から呼んだということは、出雲は既に支配下にあったということなのでしょう。いずれにしても、これ以降、宮中で相撲が取られるようになり、7~8世紀頃には相撲節会として行事化されることになります。相撲節会の初出は、734年、聖武天皇の時代とされます。疫病や天災に苦しんだ時代であり、大仏も建立されています。

相撲節会は、七夕の余興として行われていたようですが、その後、多少意味合いが変わり、独立した行事として運営されることになります。8世紀末、律令制の立て直しを図った桓武天皇は、地方兵力として健児の制を全国に布きます。健児とは、兵士を意味し、律令体制のなかで整備されましたが、その後、途絶えていました。相撲は、健児の鍛錬の一環として推奨され、相撲節会も式部省から兵部省の管轄に代わります。そして、相撲節会は、七夕から独立した行事となっていきます。相撲は、神事から武芸へと変質したわけです。12世紀に至り、平安京が不穏な時代を迎えると、宮中の相撲節会も廃れていったようです。ただ、迎えた戦乱の世にあって、相撲は武士の鍛錬、実戦における技として、広がっていくことになりました。

宮中行事であったために、相撲節会の記録は、詳細に残されることになりました。まずは、宮中を警護する左右の近衛府が、全国から力士を選抜し、招集します。集まった力士たちは、節会に向けて稽古を重ねますが、天皇もこれを検分したと言います。今の横審稽古総見を思わせます。立ち会いは立ったまま行われ、掛け声とともに取り組みが開始されます。勝者は、土俵上で勝者の踊りを舞っていたようです。また物言いの制度もあり、決着がつかない場合には、天皇が裁可しました。また最後の取り組みを行う力士は最手(ほて)と呼ばれ、特別な扱いを受けたようです。まさに後の横綱・大関そのものです。つまり、相撲は、相撲節会として宮中行事化されることで、今につながる競技の形を形成したわけです。

江戸期の始め、寺社が建築資金等を集めるために”勧進相撲”を始めます。ただ、勝負の結果を巡る争いが絶えなかったことから禁止されます。ところが、明暦の大火が起こり、寺社再建のために勧進相撲は再び解禁されます。寺社奉行のもとに興業団体も組織化され、複数の場所で定期開催されようになっていきます。そして、1768年には、回向院で大規模な興業が行われ、ここに江戸相撲が形を成し、江戸庶民の人気を集めることになります。さて、宮中での相撲節会が廃れてから900年経ちますが、天覧相撲は、今も続いています。2019年初場所の天覧相撲は語り草となっています。取り組みが終わり、席を立たれた平成天皇ご夫妻に、館内から万歳三唱が起こります。平成天皇は、その年5月に退位が決まっており、これが最後の天覧相撲でした。万歳の声を聞いた天皇は、席に戻り、館内に手を振ったのでした。(写真出典:shoryobu.kunaicho.go.jp)

マクア渓谷