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相撲節会図 |
第11代天皇とされる垂仁天皇は、実在するとすれば、3世紀後半から4世紀前半の大王だったと推定されています。記紀等によれば、垂仁天皇は、娘の倭姫命に天照大神を祀る地を探すように命じます。諸国を巡った倭姫命は、神託を受けて伊勢神宮を創建します。また、垂仁天皇は、天皇の直轄地である屯倉を最初に作ったともされます。ヤマト王権草創期を担った大王なのでしょうが、この時点では、まだ部族連合の頂点に立っていなかったと思われますが、宿禰を出雲国から呼んだということは、出雲は既に支配下にあったということなのでしょう。いずれにしても、これ以降、宮中で相撲が取られるようになり、7~8世紀頃には相撲節会として行事化されることになります。相撲節会の初出は、734年、聖武天皇の時代とされます。疫病や天災に苦しんだ時代であり、大仏も建立されています。
相撲節会は、七夕の余興として行われていたようですが、その後、多少意味合いが変わり、独立した行事として運営されることになります。8世紀末、律令制の立て直しを図った桓武天皇は、地方兵力として健児の制を全国に布きます。健児とは、兵士を意味し、律令体制のなかで整備されましたが、その後、途絶えていました。相撲は、健児の鍛錬の一環として推奨され、相撲節会も式部省から兵部省の管轄に代わります。そして、相撲節会は、七夕から独立した行事となっていきます。相撲は、神事から武芸へと変質したわけです。12世紀に至り、平安京が不穏な時代を迎えると、宮中の相撲節会も廃れていったようです。ただ、迎えた戦乱の世にあって、相撲は武士の鍛錬、実戦における技として、広がっていくことになりました。
宮中行事であったために、相撲節会の記録は、詳細に残されることになりました。まずは、宮中を警護する左右の近衛府が、全国から力士を選抜し、招集します。集まった力士たちは、節会に向けて稽古を重ねますが、天皇もこれを検分したと言います。今の横審稽古総見を思わせます。立ち会いは立ったまま行われ、掛け声とともに取り組みが開始されます。勝者は、土俵上で勝者の踊りを舞っていたようです。また物言いの制度もあり、決着がつかない場合には、天皇が裁可しました。また最後の取り組みを行う力士は最手(ほて)と呼ばれ、特別な扱いを受けたようです。まさに後の横綱・大関そのものです。つまり、相撲は、相撲節会として宮中行事化されることで、今につながる競技の形を形成したわけです。
江戸期の始め、寺社が建築資金等を集めるために”勧進相撲”を始めます。ただ、勝負の結果を巡る争いが絶えなかったことから禁止されます。ところが、明暦の大火が起こり、寺社再建のために勧進相撲は再び解禁されます。寺社奉行のもとに興業団体も組織化され、複数の場所で定期開催されようになっていきます。そして、1768年には、回向院で大規模な興業が行われ、ここに江戸相撲が形を成し、江戸庶民の人気を集めることになります。さて、宮中での相撲節会が廃れてから900年経ちますが、天覧相撲は、今も続いています。2019年初場所の天覧相撲は語り草となっています。取り組みが終わり、席を立たれた平成天皇ご夫妻に、館内から万歳三唱が起こります。平成天皇は、その年5月に退位が決まっており、これが最後の天覧相撲でした。万歳の声を聞いた天皇は、席に戻り、館内に手を振ったのでした。(写真出典:shoryobu.kunaicho.go.jp)