崇徳院は、鳥羽天皇と藤原璋子の間に生まれ、父親の譲位によって、わずか3歳で践祚します。上皇となった鳥羽天皇は、藤原得子(美福門院)を寵愛し、子を設けます。鳥羽上皇は、その子(近衛天皇)を天皇にするため、崇徳天皇を降ろします。近衛天皇が夭折すると、後継天皇を巡る対立が起きます。崇徳天皇の子が順当な候補ですが、鳥羽上皇は、美福門院の幼い養子を天皇にすべく、その父(後白河天皇)を中継ぎの天皇に立てます。そこへ藤原家の内紛も重なり、鳥羽上皇が崩御すると、崇徳上皇派と後白河天皇派の争いは武力衝突へと発展します。1156年に起きた保元の乱です。戦いに勝利した後白河天皇派の武士を率いたのは平清盛、崇徳上皇派は源為義でした。ただ、平氏と源氏は、両派に混在しています。
捕らえられた崇徳上皇は、讃岐へ流されます。天皇・上皇の流刑は、8世紀、孝謙上皇によって淡路島へ流された淳仁天皇が初めとされます。崇徳院の流刑は、実に400年振りに行われたわけです。同行を許されたのは寵妃とそのわずかな女官だけだったといいます。崇徳院は、大乗経の写本に勤しみます。書き上げた写経5部を京の寺に奉納しようとしますが、後白河天皇によって拒絶されます。怒り心頭に発した崇徳院は、写本に自らの血で「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と書き込んだとされます。怨念のかたまりとなった崇徳院は、流刑から8年後に崩御します。病死とも暗殺とも言われます。髪と爪を伸ばし続けた崇徳院の末期の姿は、まるで夜叉のようだったと伝えられます。
崇徳院の死後10余年、1176年になると、崇徳院に敵対した要人たちが次々と亡くなり、災害が起こり、平家が台頭する過程での様々な騒乱も起こり、崇徳院の祟りが注目されることになりました。祟りがあったとすれば、その最大のものは、平家の早すぎる滅亡だったかも知れません。上田秋成の「雨月物語:白峰」は、西行が崇徳院の怨霊を鎮める様が描かれています。また、能楽「松山天狗」も崇徳院の怨霊を題材にしていますが、天皇家を慮ってか、しばらく上演されることはなかったようです。また、古典落語にも「崇徳院」という演目があります。祟りは一切関係なく、百人一首にも選ばれた崇徳院の短歌「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」をモティーフとする恋煩いの話です。(写真出典:ja.wikipedia.org)